2018年7月15日日曜日

戸隠三十三窟(長野県長野市)


長野県長野市戸隠 戸隠神社(戸隠山)

戸隠神社は元来は学問行者が開山した霊場であり、山岳仏教・修験道の系譜で隆盛していたものが、明治の神仏分離を受けて神社となったものである。

戸隠神社奥社
戸隠神社奥社(奥院)参道の有名な杉並木だが、これも江戸時代に植樹されたものである。

戸隠山を練り歩いていた学問行者が諸仏と出会った場所が、現在戸隠神社奥社の背後にある本窟・宝窟であり、戸隠の地主神ともいわれる九頭龍大神と出会ったのが現在九頭龍社の背後にある龍窟と伝えられている。

戸隠神社奥社
奥社(奥院)の裏に見える岩肌。本窟・宝窟と目されるが内部を見ることはできない。戸隠信仰の本髄はここにあるはずだが感得することはできなさそうだ。

戸隠神社奥社
九頭龍社に接している岩肌。社の本殿はこの岩盤の中に導かれており、龍窟と思われるがこちらも構造不詳。

戸隠神社奥社

戸隠山には、このような岩窟の行場が山中各所に分布していたといい、戸隠三十三窟と総称されている。
三十三窟と思しきものが江戸時代の絵図にも描かれているので列挙してみたい。

http://www.i-repository.net/il/cont/01/G0000307npmh/000/218/000218978.jpg
「信州戸隠山惣略絵図」(江戸時代作推定)

上絵図は33カ所描かれていないので、下の近代の絵図も参照してピックアップしてみよう。

http://www.i-repository.net/il/cont/01/G0000307npmh/000/218/000218977.jpg
「国幣小社戸隠神社御境内図」(1900年作)

  • 本窟(宝窟)
  • 龍窟
  • 大岩窟
  • 大多利窟
  • 仙人窟
  • 歓喜天窟
  • 帝釈窟
  • 金剛窟
  • 大威徳窟
  • 水晶窟
  • 不動ノ窟
  • 軍タリ窟
  • 胎内窟
  • 隆三世窟
  • 愛染窟
  • 毘沙門窟
  • 聖天窟
  • 長殿窟
  • 三層窟
  • 西窟
  • 獅子ノ窟
  • 象ノ窟
  • 五色窟
  • 大隈窟
  • 小隈窟
  • 中ノ窟
  • 日中窟
  • 雷ノ窟
  • 経蔵窟
  • ヤクシ窟
  • 梯願窟
  • 塔窟
  • 般若窟
  • 法華窟
  • 智慧ノ窟

複数の文献から拾い出したところ、33カ所を超えてしまった。時代と文献によって、三十三窟の選定には揺らぎがあるらしい。
(または、同一物に複数の名称がついているか)

また、裏山には「礼ハイ石」「マンダラ石」の字も見え、山岳仏教特有の岩石信仰の跡も見られる。

これらのいくつかは所在が特定されているが、中には位置が分からなくなっていたり、現在では到達至難な場所もあるとのことである。
一部の岩窟については、導いてくれる専門のガイドの方もおられるようだが、本格的な登攀装備は必須だろう。

ほか、気になったものをいくつか。

戸隠神社奥社
社務所の隣にある、岩に囲まれた施設。

戸隠神社奥社
参道脇に露出する岩塊の岩陰に祀られた石仏三体。文政2年(1819年)の銘がある。

戸隠神社奥社
現代の岩石信仰あるいは特別視と呼ぶべき所産。参道脇に存在。

2018年7月12日木曜日

田頭 岩窟観音堂(長野県長野市)


長野県長野市戸隠栃原田頭 字裏の山



戸隠の田頭地区にある岩窟観音堂は、樹齢約500年といわれる大杉(天然記念物)の存在で知られる名勝である。
これと併せて、岩窟観音堂の名前が表すように、本堂の背後と隣に2体の巨岩が控えることにも触れておきたい。
周辺にこれほどの岩盤の露出は見あたらず、この地だけに忽然と存在する。

田頭岩窟観音堂

県外者は、田頭地区まで来るのが一苦労である。

長野市街から車で約1時間。
国道406号経由と戸隠神社方面から地方道を進むルートがあるが、いずれのルートも狭道であり普通車はやや難儀する。
(私は普通車で来たが)

田頭に入ったら、この看板のとおりに進む。

田頭岩窟観音堂

ここで私は道を間違えまっすぐ進んだが、正解は右。
よく見ると、道の分かれ目に「岩窟観音堂の大杉」を示す標識があるが、狭道のため注意が散りやすく、標識に目が行きにくい。
まっすぐ進むと、後で触れる妙見神社・妙見寺にぶつかる。
徒歩であれば、妙見神社・妙見寺経由で行きつくこともできるが、ややわかりにくいので林道経由を推奨したい。

田頭岩窟観音堂

先の分岐を右に進むと、林道「上ノ入線」に突入する。
別の道につながらず、やがて袋小路になる林道のようだ。
道幅はそこまで狭くはないが、未舗装のため夏は草が繁茂しすぎで車が入れる道になっていない。

田頭岩窟観音堂

上写真の道路状況はここがたまたま良いだけで、探訪日(2018.6.30)は倒木と落石が多く、現状で車の進入はお薦めしない。夏は特に進入車が少ないのではないか。

上写真の「岩窟観音堂の大杉」の説明看板が右手に見えたら、右の山側斜面に取りつく。
上写真ではよく分からないと思うので、さらに拡大。

田頭岩窟観音堂

上写真中央の踏み跡を登ればすぐ岩窟観音堂が見える。

私は初めは夕方に訪れたため、この踏み跡が薄暗く観音堂への取りつきとわからず、林道の先にあるのだと勘違いしひたすら突き進んで敗退。
翌日に再訪したところ、昼間なら林道からも観音堂が見えたので2回目で見つけることができた(夏なので繁茂でよりわかりにくいのだろう)。

田頭岩窟観音堂

ちなみに林道を直進すると、「岩窟観音自然園」の2001年の看板が立つ場所がある。

田頭岩窟観音堂

そこに東屋があり、おそらく駐車スペースを思われる広場があるが、ご覧のとおり伸び放題なので夏は車の底をこする覚悟で。
冬は冬で凍結の恐れがあると思うので、車でのアクセスは春か秋限定かも。
かつては観光地化されたような形跡があるが、現状は再び取り残されている感がある。

田頭岩窟観音堂

岩窟観音堂の遠景。
よくここにお堂を建てたと感心する斜面。舞台造となっている。
写真の左右に巨岩が相対する。

田頭岩窟観音堂

本堂の前に屹立するのが大杉。

田頭岩窟観音堂

田頭岩窟観音堂

「岩窟観音堂維持お手植えの杉」とある。
維持は平安時代の平維茂(たいらのこれもち)のことで、戸隠一帯に鬼女・紅葉を維茂が討伐した紅葉伝説が広まっており、その伝承地となる。

田頭岩窟観音堂

本堂掲示(1929年、信徒総代3名と大昌寺住職滝沢天海氏の記述)からかいつまむと、次のとおりである。

  • 名称は「妙見寺(岩窟観音堂守護寺)」「奥の院岩窟観音堂」
  • 本尊は弘法大師作(伝)とされる観世音と馬頭観世音。
  • 平維茂が鬼女・紅葉を討伐する時、北向観世音(小県郡別所村)に祈願したところ、紅葉の居場所を霊夢で知り討ち取ることができた。
  • 紅葉討伐は観音の霊験と感激した維茂は「奇巌相聳える地を探し」、北向観世音の分霊をまつったのが当地だという。

伝承上の話ではあるが、維茂が観音をまつる地をなぜ「奇巌相聳える地」にしたのかは不明である。

田頭岩窟観音堂

田頭岩窟観音堂

本堂の背後には、堂に接して上の巨岩がそびえている。
岩肌には大小の窪みがあり、堂背後には岩窟状の空間があるのかどうかは不明だが、構造的にはあってもおかしくない。
戸隠神社の奥の院も背後に岩窟を有し、祭祀構造としては同等である。

田頭岩窟観音堂

本堂の西にもう1体巨岩がある。

田頭岩窟観音堂

こちらは社祠をまつっているようである。
神名は明示されておらず不明。

田頭岩窟観音堂

実際は石仏も奉献されており、神仏混淆の世界である。
紅葉伝説の一伝承地として語られる場所だが、このような斜面に舞台造の堂を設けた理由はこの2体の巨岩の立地に他ならない。
この岩石信仰はいつまで遡れるのか興味がある。

田頭岩窟観音堂

麓には妙見神社と妙見寺がある。
前述の掲示によれば、ここの奥の院として岩窟観音堂は位置づけられている。
神社の右を通る踏み跡が本来の参詣道だったと推測され、この延長線上に岩窟観音堂がある。

田頭岩窟観音堂

参詣道に並ぶ多数の石仏群が歴史を物語っている。

2018年6月24日日曜日

堂の穴/堂ノ穴(静岡県伊東市)


静岡県伊東市八幡野

八幡野の海岸に「堂の穴/堂ノ穴」と呼ばれる自然の岩窟がある。
当地をかつて岩倉と呼んだ。

堂の穴/堂ノ穴

堂の穴/堂ノ穴

土地の伝承によると、三島大神とその兄弟がこの海岸に来臨、鎮座した場所だという。
別の口碑では、伊波久良和気命が鎮まった岩窟ともいい、式内社・伊波久良和気命社の旧社地とも目されている。

後に、この岩窟に宿っていた神を内陸部に遷座し、そこはいま八幡宮来宮神社としてまつられている。

伊豆に散見される来宮の神のひとつであり、民俗学的には漂着神信仰を伝える場として知られている。

地名と神名の両方に「いわくら」を伝えるが、肝心の洞窟の名は「堂の穴」として伝わる特殊な例である。いわくらの神であり信仰であることは論をまたない。
座席のような宿りかたをする「くら」ではなく、蔵・倉として内部に宿る「くら」と言える。

「堂の穴」は海岸の岩盤が浸食で庇状に削られたものであり、入口が広く開いているため、洞窟というよりは岩陰のような空間を形成している。
岩肌には無数に剥離面・断面が入り乱れており、平滑面には模様のようなグラデーションが走り、岩石信仰としては特徴的である。この岩の自然の造形が信仰と無関係と断じることはできない。

堂の穴/堂ノ穴

堂の穴/堂ノ穴

現状、岩窟内には多数の祠や石仏・石碑が林立しており神仏習合の地となっており、それぞれが石の基壇や自然岩の上に建てられている。
また、祠の中には大小の石を献じた跡も残っている。

堂の穴/堂ノ穴

堂の穴/堂ノ穴

堂の穴/堂ノ穴

2018年6月14日木曜日

磐座神社・龍王山・権現山・高巖山(兵庫県相生市)


兵庫県相生市矢野町森字神田

磐座神社

磐座神社という名前は、磐座に降りた神を、後世に神社としてまつったものである。

元々は神が座した岩が、神が見えないからこそだろうか、岩自体が神と同格になり、その岩をまつる神社に転化した。

磐座神社

拝所のこの奉納額の多さと遺存状態が、磐座神社の篤い信仰を今に伝えている。

磐座神社

「社殿背後の権現山を神体山として拝し高座石 座光石 天狗岳を磐座の神と仰ぐ」
降座石の別名もあるという。

磐座神社

「後山ガ万葉集ニヨル矢野神山デ三角錐ノ奇峰」
「天正十一年十一月社殿ヲ現地に創建 岩蔵地蔵権現ト称シタ」

磐座神社

「座光石 此の処に並び立つ座光石は即ち磐座の大神なり 往昔山上より天降り給ふ 磐座神社の名は是に由来す」

磐座神社

磐座神社の境内から後ろの山、いわゆる龍王山、権現山(天狗岳)、高巖山に登るには、この出入口を見つけて登ること。
ルートファインディングのため、国土地理院地形図を持参することが望ましい。

磐座神社

登り口から約20分で、鳥居と巨岩のまつり場に出会う。

磐座神社

ここは磐座神社の裏山に当たる龍王山の尾根上先端。
由緒板に記されていた「龍王社(奥の院) 少童(わたつみ)神 阿弥陀佛」の地である。

磐座神社

元文4年(1739年)の銘をもつ。鳥居の前は切り立つ斜面で道が見当たらないが、信仰の歴史を感じさせる。

磐座神社

巨岩の懐に、少童神をまつる龍王社がある。
周囲の岩々も、聖域を構成する磐境のような感がある。

磐座神社

この巨岩の逆側に回ると、もう一基堂宇が控えている。
これは阿弥陀佛をまつる奥の院である。
つまり、この巨岩は表裏で神と仏をまつりあう神仏習合の地である。

「相生市の伝説(06)-磐座(いわくら)神社の巨岩伝説」http://www2.aioi-city-lib.com/bunkazai/den_min/den_min/densetu/06.htmによれば、享保年間に2つの集落がこの岩と山の所有権を争った時、この巨岩に亀裂が入ったという。
複数の集落の聖地であったことが窺われるエピソードである。

磐座神社

龍王山から北に尾根続きで権現山(天狗岳)がそびえる。
山頂直下に大岩壁が広がり、これを天狗岩という。

麓から仰ぐと三角の稜線を描き、神体山や磐座の神と位置付けられていることから、この天狗岩も磐座であることは疑いない。

磐座神社の座光石は山の上から落ちてきた石と言い伝えられているが、それが龍王山の奥の院の巨岩のことか、 この天狗岩のことからは明示されていない。
また、磐座神社からは直接見えないが、権現山のさらに北方には高巖山という山がそびえ、山名のとおりここも巨石累々らしい。ここも含めて磐座神社の聖地とみなされているかはわからない。

神社説明板に書かれていた「高座石」が、今まで触れたどの石に該当するのか、あるいは別の石を指すのかが特定できなかった。
奥の院の巨岩に、特定の名前が付いていない様子でもある。

いずれにしても、山中に遍く存在する山の神が局所的に出現する象徴的な地として石があり、その石が存在する天狗岩、龍王山奥の院、座光石などに、時期ごと、祭祀集団ごとに祭祀の場所を変えながら降臨したのだろう。

伝説上では祭祀の場は山頂から山麓へ移ったかのようだが、禁足地の概念なども踏まえて、史実はどうだったかは即断できない。安易に奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の概念を当てはめるのは危険である。
ただ、当地の場合は麓からでも権現山の天狗岩が遠望でき、その威容は容易に伝わるため、祭祀の場とは別に、元来の信仰の源のひとつだったとは言えるだろう。
信仰対象は山中にあることを認知しながら、祭祀の場は基本的に山麓だったという可能性もあるし、山の民の発想で言えば、山中に踏み入れて山中の巨岩で祭祀の場を設けたのも自然である。
現時点で、神道学・文献学・民俗学それぞれで山岳信仰の捉え方については諸説が入り混じっている状況であり、場所によりケースバイケースの可能性もある。

2018年6月11日月曜日

気比遺跡/気比銅鐸出土地(兵庫県豊岡市)


兵庫県豊岡市気比溝口

立地としては、山の尾根先端が河川とぶつかったところに、高さ約4mの岩盤が露頭している。
ここから銅鐸4個が出土したことで知られる。

気比遺跡銅鐸出土地

発見された銅鐸は完形で保存状態も良く、現在東京国立博物館に所蔵されている。

気比遺跡銅鐸出土地

この一帯は岩盤が露出しており、採石作業中に銅鐸が見つかった。

気比遺跡銅鐸出土地

岩盤には3体の仏像と「南無阿弥陀仏」の字が刻されていた。

このちょうど裏側が岩の集積となっていたようで、そこに生まれた岩穴のような空間に銅鐸があったという。
岩穴空間の床面には川原石と貝殻が敷かれ、その上に銅鐸4個が横に寝かされた状態で収められていたという。
発見当時は、岩穴の入口に相当する部分に閉塞石のように石の詰め物がなされていたといい、極めて人為的な空間が形成されていた。

気比遺跡銅鐸出土地

石仏が刻まれていた面のちょうど裏側。
原形はとどめていないかもしれないが、おそらくこちら側にかつて岩穴の空間があったのだろう。

気比遺跡銅鐸出土地

尾根と岩盤の間に道が切り開かれている。中世の頃からあった古い道ともいう。
元は同一の岩盤だったと思われるが、道によって結果的に銅鐸埋納地は単立の巨岩のような外見となった。

気比遺跡銅鐸出土地

井上洋一氏は「但馬・気比銅鐸をめぐる2・3の問題」(『考古学雑誌』68-1、1982年)の中で、この銅鐸の実物を観察した結果、弥生時代の埋納状態そのままではなく、別の場所からこの岩穴に後世移された「再埋納の跡」ではないかと論じた。
以後、当地を弥生時代の遺跡と見るのは批判的である。

また、いわゆる巨岩信仰と銅鐸埋納をセットにする旧来の研究の反証事例としても挙げられることがある。

とはいえ、1例2例の再埋納の例を取り上げて、すべての「石と青銅器の伴出事例」を否定するのも横暴である。
巨石下に青銅器を埋納する事例が、瀬戸内地域の扁平鈕式の型式の時期に分布していることを指摘する研究(石橋茂登氏「銅鐸・武器形青銅器の埋納状態に関する一考察」『千葉大学人文社会科学研究』22、2011年)や、朝鮮半島からも巨石下の青銅器埋納事例が見つかっていることから、アジアに広げた祭祀研究の中で考えるべきというのが昨今の趨勢である。

また、当地が銅鐸だけの視点で語られることで看過されるのが、石仏・刻字という文化財と、再埋納した人々の心性と歴史である。

岩穴に川原石と貝殻を敷き、その上に銅鐸を並べて、閉塞石を詰めたという祭祀が行われていた事実を、はたして誰が、どの立場で研究のまなざしを当てているのか?

石仏の担い手と銅鐸再埋納の担い手が同じであるという保証はないが、石橋茂登氏「銅鐸と寺院―出土後の扱いに関して―」(『千葉大学人文社会科学研究』21、2010年)でも述べられているように、中近世において弥生時代の銅鐸が発見された時、そのいくつかは梵鐘と同じような位置付けの聖なる法具として扱われた記録が残っている。
当地の銅鐸埋納が、このような歴史的背景のもとでなされた祭祀遺構と考えると、その具体的な祭祀方法を今に伝える貴重な資料とも言える。

その中で、岩石に仏を彫る行為や岩石に法具を納める行為を、岩石信仰という観点から批判的に捉えることも一つの重要なアプローチだろう。