インタビュー掲載(2024.2.7)

2024年3月15日金曜日

『変動帯の文化地質学』第2部第2章を分担執筆しました

すべては、地質の上に成る――。地震や火山などの災害と隣り合わせで生きる日本人にとって、地質は自然環境の基盤としてのみならず精神文化の基盤としても相即不離な存在である。(出版社HPより

2024年2月、鈴木寿志[編集代表] 伊藤孝・高橋直樹・川村教一・田口公則[編集]『変動帯の文化地質学』(京都大学学術出版会)が刊行されました。

全5部構成ですが、その第2部の第2章「岩石信仰研究の視点」(pp.157-173)を吉川が執筆しました。

本文でも述懐しましたが、私がこのような研究を始めた時の「巨石」「磐座」一辺倒だった当時の空気をふりかえれば、今回、岩石信仰の章が設けられたのは隔世の感ありです。


本書は科研費「変動帯の文化地質学」の研究成果として発表されたものです。

変動帯も文化地質学も耳慣れない用語かもしれませんが、日本列島は地震や火山に代表される地質活動が活発な変動帯に属します。

そのような土地の上に住む人々に、変動帯ならではの地質活動が文化的な影響をも与えただろうという仮説の下、数々の研究が揃いました。


本書の目次を紹介します。

―――

序論 文化地質学の提唱と発展

  • 第I部 石材利用の歴史と文化
  • 第1章 城の石垣・石材から見えること
  • 第2章 山形城の石垣石はどこから集めたのか
  • 第3章 庶民の石,権力の石──神奈川県の石材から
  • 第4章 シシ垣──人と野生動物を隔てる石の砦
  • 第5章 「石なし県」千葉における石材利用
  • 第6章 近代建築物に利用された国産石材
  • 第7章 なぜ「花崗岩」のことを「御影石」と呼ぶのか──土石流がもたらした銘石

第II部 信仰と地質学

  • 第1章 縄文時代と環状列石──北東北の例
  • 第2章 岩石信仰研究の視点
  • 第3章 仏教における結界石の持つ意味と役割──日本とタイの事例から
  • 第4章 磨崖仏
  • 第5章 山岳霊場の地質学──香川県小豆島と大分県国東半島の岩窟
  • 第6章 熊野の霊場を特徴づける地形・地質
  • 第7章 中近世石造物の考古学──兵庫県姫路市書寫山圓教寺の事例から
  • 第8章 京都の白川石の石仏

第III部 文学と地質・災害

  • 第1章 地質文学
  • 第2章 『おくのほそ道』に描かれた芭蕉の自然観
  • 第3章 「地」で読み解く宮沢賢治
  • 第4章 日記史料にみる中近世の日本における地震の捉え方
  • 第5章 醜い山から崇高な山へ──B・H・ブロッケスの詩「山々」をめぐって

第IV部 地域の地形・地質を楽しむ

  • 第1章 地域資源をブランド化する──ジオパークと日本遺産
  • 第2章 文化地質学の視点を取り入れたジオツーリズム
  • 第3章 地学散策路──ジオトレイル
  • 第4章 地域の成り立ちを見る──ジオストーリー
  • 第5章 食と地学──常陸・茨城の食の背景を考える
  • 第6章 地域資源の再発見──博物館の新しい役割
  • 第7章 地域を見る目を育てる──地域博物館の使命

第V部 地学教育の新展開

  • 第1章 地学教育における文化地質学の役割
  • 第2章 学校の岩石園を探検しよう

総論 変動帯の文化地質学

―――

企画が始まった時にこの目次の素案を見てわくわくしたものです。

地質学分野の方々のみならず、人文学の立場からも興味深いテーマが見つかるのではないでしょうか。

本書企画時の想定読者層は大学生以上~社会人と聞いています。研究者・学者向けの論集という作りではなく、本書を入口に今後の学問関心を喚起するような平易な文体となっているはずです。

私もその企画意図に合わせて、後学の方に向けての遺言めいたメッセージを込めた内容としました。


【節見出し】

  1. 岩石信仰の概念
  2. 自然石の信仰を研究する難しさと重要性
  3. 観察方法
  4. 岩石信仰の起源に関する論点
  5. 岩石信仰の現在地と未来


岩石信仰は自然信仰ですから、主客の関係でいえば、自然が主で人間が客体です。

人間には個体差がありますから、自然を前にして受け身になった時、各人が思い思いに異なる感情を得ることと思います。すなわち、岩石信仰は本来的には多様でカオスという世界観を是とします。

しかし、人間社会では多様の難しさもあります。みんなばらばらの心の中だと相手のことがわからない、社会を構築しにくい、集団での統制が取れないなど…。

そこで我慢できなくなった人が均一化・統一化・強制化を図ると、個人的信仰心から離れて社会性をもった宗教になりますが、そうすると人が主で、自然が二の次になったと言えます。

だから、組織立った宗教には信仰心とは別の要因・ノイズが入りだします。これは善悪をつけられるものというより、ヒトの業のようなものかと思いますが、私はそういった社会化した宗教研究よりも一個人の脳の反応として出現した信仰心に研究の関心があります。

そのあたりが伝われば、岩石信仰研究が誰にでも当事者となりうる人間研究であり、多様でカオスな隣人を理解する一方法なのだとおわかりいただけると思います。


当サイトの「カタログ」にも掲載しました。

税込5,940円ですが、お求めいただければ嬉しく思います。


2024年3月3日日曜日

石の木塚(石川県白山市)


石川県白山市石立町




5個の凝灰岩が立っている。これを「石の木塚」と呼ぶ。

5個の立石はサイコロの5のような配置を見せ、中心の立石から東西南北の方角に向かって残り4個が立つ規格的な配置をみせる。


嘉元2年~3年(1304~05年)頃の成立とされる『遊業上人縁起絵』に「石立」の地名が記されており、これが地名の「石立」の初出とされている。

石が立つ、の語源をこの立石群に求めるのは妥当であり、少なくとも14世紀にはこの立石群が存在したことがわかる。

さらに石の木塚ではすでに発掘調査が行われており、塚の地点から5~6点の土師器椀が発見されている。

椀の製作時期は10世紀後半~11世紀前半のものと考えられており、考古学的には石の木塚の構築を10世紀代まで遡ることができる。


石の木塚は、石立町の玄関口に位置しており、道が大きく折れる角地に立つという特徴的な立地にある。

全国の「立石(石立)」地名は、古代道に沿って分布するという研究がなされている(三浦 1994年)。

石の木塚の石立の地も、駅伝制による古代駅・比楽駅の近くに位置することから、石の木塚は古代道における交通標識に類する役割を担う施設だったのではないかという説が有力である。


そのような立石が単なる交通標識だったのか、祭祀・信仰に関する精神的な意味も込められた存在として成立当初からあったのか不明だが、いずれにせよこの立石は時代を経て「石の木塚」と呼ばれて、そこに込められた性格は自ずと変容・付加されていく。


まず江戸時代文献で石の木塚が再登場するのは、17世紀後半成立とされる『加能越金砂子』である。石立村に五本の大石があり、いつのことからはわからないが一夜の内に出現したと語られる。

一夜出現類型としての岩石伝説である。


次に、18世紀前半成立の『可観小説』では、「立石の宮の石の根」という一説が設けられて別の伝説が記されている。

社壇に立石五つがあり、これを立石の宮と呼んで神社としてまつったと明記されている。ここに、立石は岩石信仰の領域に入ったことがわかる。

加賀藩第3代の前田利常が近辺の百姓を動員して立石の根元を掘り下げさせたが、二丈(約3.5m)掘ってもその石の根はわからなかったという。

石の根が深く地中がどうなっているかわからないという類型の岩石伝説も他で見聞きするところである。


18世紀後半成立の『加越能三州奇談』では「石立村の石は此根能州の寺口へ出て猪の牙の如く飜れり」とあり、石の根の深さが別のところとつながって出ていくという伝説類型へ広がっている。


同じく18世紀後半成立の『越の下草』では、石の木塚と浦島伝説が接続する。

いわく、永正17年(1520年)、この地で龍宮から帰った酒屋の主が忽ち老体となり亡くなり、後日、異形の女と童子4人がそれぞれ石を背負って主の塚に5つの石を立てて、年ごとに石は太りその根の深さ知れずになったという。そしてその石塚を石立大明神として勧請したという。

立石がなぜ立つのか、その成立を伝説的に語る由来となっている。


他に弁慶伝説も付帯するほか、「石ノ木宮」「雀の宮」などとも呼ばれたらしい。


参考文献

  • 三浦純夫 「加賀石立の立石考」 森浩一・編著『考古学と信仰』(同志社大学考古学シリーズⅥ) 同志社大学考古学シリーズ刊行会 1994年
  • 日置謙 校訂並解説『加能越金砂子』,石川県図書館協会,1931. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3440189
  • 『加越能叢書』前編,金沢文化協会,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1227824
  • 宮永正運 著 ほか『越の下草』,富山県郷土史会,1980.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9538411


2024年2月25日日曜日

大嶋仁『石を巡り、石を考える』(2023年)学習メモ

大嶋仁『石を巡り、石を考える』(石風社 2023年)を読んで、今後の研究につながる部分を記録したものである。

大嶋仁氏は、日本比較文学会の会長を務めた人文学の研究者で、氏にとって石をテーマに扱った研究は本書が初となる。

大嶋氏自身の生涯の中での石の関わりや世界各地の石の遍歴を含んだ内容でもあり、氏の岩石の哲学が込められた1冊となっている。


1.本記事は個人的メモのため、読ませるように文章を整理できていない。

2.岩石信仰と関連する部分で今後有用と思われる情報を中心にピックアップしたため、本記事は必ずしも本書の要点をまとめたものとはなっていない。


本書を書くきっかけとなった動画

著者(以下、大嶋氏を指す)が岩石や地球に興味を持つようになり、本書を書くに至ったきっかけの動画が紹介されている。

著者がこの動画から得た学びを列挙する。

  • 地球が作り出す電磁場が地球を守っており、地球の存在が少しも安泰ではないこと。
  • 地球の様々な活動が熱、電磁場、大気、水、そして生命を生み出したこと。
  • 自分に来ている世界が地熱の上にあると実感できること。
  • 地球の終焉、人類の絶滅を淡々と語るところに無常観を感じさせるが、感情を廃して科学的態度で貫かれている。


ガリシアの石

スペイン北西部のガリシア地方は雨が多く湿潤な気候である。ガリシア地方には岩山が多く、石工の数も多いという。

ガリシア地方の町は石に彩られており、特徴として石がざらざらしていて磨かれていないことに著者は注目する。

磨く技術がなかったのではなく、磨こうという意思がもともとないのだ。磨くとは粗削りな表面を消したい、化粧をさせたいということである。磨きたくないとは、粗削りなままでいい、化粧をしてはいかんという意味である。

これを、無意識のうちの石の信仰ととらえる。そして、多湿な気候のため粗削りな石が黒ずんでおり、水の信仰にもつながるとみている。著者の言葉を借りれば「ここの石は呼吸している」という表現になる。


巨石文化とケルトは関係ない

ドルメンなどの巨石文化はヨーロッパの西外れの大西洋沿いに位置し、これはケルト文化圏と重なる。

しかし、ケルトの出現はドルメンより後なので時代が異なり、本来は関係がない。

ケルト人はそれ以降にヨーロッパへ来た人々に追われたため、ヨーロッパの「最果て」の地である西外れに流れ着いたため、巨石文化の分布とたまたま重なったという説明で足りる。

巨石文化がなぜ大西洋沿いに分布するのかは説明できていないが、ガリシア地方もまた大西洋沿いで湿潤な「水の信仰」の地だった。


石の信仰要因

新石器時代に巨石文化が流行った理由を著者はこう説明する。

地磁気を感じる力は文明の発達とともに衰えたが、それが衰えないようにという工夫が巨石文化となって現れたと見ることもできる。ということは、すでにあの先史時代において地磁気を感じる力の衰えが自覚されていたということで、それを食い止めるために石の力を象徴する建造物が必要だったのである。

石の力とは何か。著者はそれを物理学的に説明すれば地球の磁力であるとする。小石であっても地球の磁石としての微小部分を担っていて、さらに巨石となれば一つの地磁場となる。

動物には本来磁場を感じとる力があり、現代人にはその力がほとんど失われてしまったが、新石器時代人は現代人よりその感度が高かったはずで、岩石、特に、巨大な岩石であればあるほどそこに宿る磁力を感知し、それを「不思議な力」への信仰としたのではないかという論理である。聖地やパワースポットの誕生も、そのような地磁気を感知する能力によるものとみる。

新石器時代人が現代人より地磁気を感じとる力があったかどうかは未解明で推測となり、無意識で地磁気を感じとったことでどのような心理・信仰となるのかは説明されていないが、岩石信仰を科学的に説明した文として注目したい。


キリスト教圏における岩石の聖性の位置づけ

現代のケルトの末裔に「あなたは石を信仰してますか」と尋ねても怪訝な顔をするだけだろう。よほどのスノッブでなければ、「はい、もちろん」などとは言うまい。「信仰」という言葉は彼らの中では教会、カトリック教会と結びつき、彼らにはそれ以外は考えられないのだ。あのケネス・ホワイトでさえ、聖なる岩を「祭壇」と呼び、カトリックの聖体拝領と結びつけているではないか。

ホワイトは、波が打ち寄せる海辺の自然岩を「あらゆる天候に耐えてきた石」で、フジツボの王冠を被った「年老いた」「聖なる岩」で「祭壇」と表現した。

これは一見、自然を崇拝するケルト文化の心性につながるようで、著者はホワイトを含めたキリスト教世界観に生きる人々が、聖なる岩を神として信仰するわけにはいかず、キリスト教世界観のなかでケルト文化や自然を取り上げざるをえない限界を指摘した。

岩石が神聖であることを語る時、西欧近代化された価値観を脱し、神話世界の言語を手に入れなければならない。


対馬で出会った人々の言葉

歴史というものも岩がじっと見とどけてきたんでしょうから、こりゃもう岩の勝利ですわな。岩にしみ入る蝉の声どころか、歴史まで染み入ってしまう。

対馬の岩の凄みを、対馬が背負ってきた歴史と共に語る大阪からの旅行客。第一印象が岩だったという対馬。著者も同感し、「石が島民を作り、島民が石を生きる」と表現した。

石だけでなく巨木も多い対馬において、著者は島南部の龍良山の裾に広がる原始林を訪れる。遊歩道が整備されているということだったが判然とせず、あきらめて帰った後に地元の人に尋ねると「前はもっときれいでした。遊歩道なんてもの、なかったんですから。」と言われて著者は仰天した。

遊歩道がなかった方が「きれい」だったというその発想。私たちが抱く感覚とはまるで違う。


ロジェ・カイヨワ『石』の評価

『石』は、第1章で中国の石に関する神話や伝説を取り上げ、第2章で鉱石を中心として石の物理的な外形を自然礼賛的に表現し、第3章以降は科学的ベクトルというよりは道徳・思想的な色が濃くなると評する。

著者は『石』を美しい文だが空虚であり、特に石を審美的に見すぎて科学的でないという点で、「石の感触を得られない」と断じた。

著者の興味関心は、岩石を地球史の記録物として、科学的に解読する哲学を追求しようとしている。


宮沢賢治の地質学的知性

著者は、科学的に解読した哲学として宮沢賢治を挙げる。

賢治の詩は、無意識のレベルで言語化された「心象スケッチ」で、心理学研究の対象としての資料になるものとして重視している。

それでありながら、賢治はたしかな地質学的な知識のうえで記述する「地質学的知性」を有しており、それは何なのかというと宇宙から地へ空間的・時間的に掘り下げていく地層学的理論であるという。

このような地質学的知性は他にもフロイトの精神分析が地質学的な掘り下げであったり、レヴィ=ストロースの人類学調査方法が常に下へ下へ、時の不可逆性を重視した点で地質学的であると評価している。

すべてに共通するものとして、地球に表れた地質や岩石、そして人間の個人的な精神から社会集団の行動まで、それらを「地球内部からの手紙」と位置づけ、その手紙を読み解こうという姿勢にあふれているとまとめられる。


石に親しみを覚えるのは、人はかつて石だったから?

人は死ねば土に還るというが、土になった私たちはやがて硬い石へと変貌する。私たちの生は石化し、地中に埋もれる。たとえ灰になっても、同じである。石を懐かしむ詩人には、「自分はかつて石だった」という記憶があるのだ。

ドイツの詩人ノヴァーリスは、鉱山学校で地質学・鉱物学を学び、石を自然界の理念形・至高的存在とみなし、石から鉱物、そして植物、動物、人間が定義されると考えた。

ノヴァーリスに言わせれば、人間は大地が最後に生んだ地層のようなものであり、その意味において、人間は自然界の新参者としての鉱物なのだという。

ここに人と石が地質学的に同系譜の中で語られうる。現代科学においてもデータ至上主義ではなく、目の前の石を見て、科学哲学を地質学的知性で学んでいくことの重要性を著者は説いている。


科学者への警鐘

本書のエピローグで、「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の松尾芭蕉の句に対し、実際に声がしみ入るのかという著者の問いが記される。

科学者の立場からは、わざわざ句や詩歌を科学的に正当化する必要がどこにあるのかという疑問も起こるかもしれないが、そこに向き合うのが優れた詩人でもある優れた科学者となりうるだろうと著者は考えている。

量子力学の発達した現在、蝉の声の力が見直される可能性はあるのではないか。石が蝉の声を体内にしみ込ませ、それを記憶の貯蔵庫に保存している可能性もある。初めは表面にしか浸透しなかった音声も、それが莫大な数の虫の音声ともなれば、少しずつ深く浸透する。そして、それが何年もつづけば、石の方でもその浸透を許す構造変化を起こし、かくして芭蕉の聞いた「しみ入る」が現実になることも考えられる。

著者は人文科学の専門家であるため、上記の「仮説」がどの程度の核心を突いているか不明だが、岩石と生物、ひいては人間との歴史においても、人々と関わった岩石とそうならなかった岩石での構造的な違いを示唆する問いとなっている。

地球の存立にとって重要な磁力がどこから来るのかを突き止めてダイナモ理論として発表したウォルター・エルサッサーは、理論物理学、気象学、地球化学、生物学と自らの問題意識に沿って次々に専門分野を変えた。それは、自らを科学者ではなく自然哲学者でありたいと考えていたかららしい。

エルサッサーは、原子爆弾の開発・投下によって、科学から自然哲学が終焉したという発言を残した。

著者は、哲学を失った科学が暴走する例を挙げて、それらに共通する過ちは、目の前に見えているもの(光景・人・地球)を見ず、想像せず、数値やデータという高みからはじき出したものをもって判断するというところにあると規定する。

石に目を落とせば、眼前の石を見つけて、石に戻り、そこから時には詩人となって想像力や直観を働かせたうえで、そこに地質学的知性を加えて科学することを現代科学者たちへ提言するのが本書である。


2024年2月18日日曜日

尖石(長野県茅野市)と縄文時代自然石信仰説


長野県茅野市豊平東嶽

 

尖石の現在の評価

尖石遺跡は、縄文時代中期の様子をあらわす集落遺跡の代表格として考古学上有名である。

そのような尖石遺跡の遺跡名を冠する「尖石」が岩石として現存することも、巨石祭祀や先史時代の信仰という観点からまた知られるところである。

尖石。尖石史跡公園の南にあり、現地に案内も整備されている。

尖石近景。三角のエッジを持つが、本記事の焦点は「摩滅」跡にある。

尖石遠景。遺跡からは南の斜面下に落ち込んで存在する。

2022年に、尖石遺跡の明治時代からこれまでの調査を包括的にまとめた『国特別史跡「尖石石器時代遺跡」総括報告書――縄文社会のデザインがはじまったムラ』(茅野市教育委員会)が発行された。上記リンク先でpdf版が全頁公開されている。

はたしてその中で尖石はどう記されているか。

報告書では主に第2章第1節(pp.7-8)で岩石としての尖石に言及があるものの、過去に宮坂英弌が記した『尖石』(茅野市教育委員会 1957年)の記述をそのまま引用したレベルの内容にとどめている。情報をまとめると、

  • 地表からの高さ1.20m、底辺は長径1.15m、短径70cmの三角形の岩石。
  • 地中にどの程度埋まっているかは不明。
  • 石肌に凹凸が激しい面があり、その凹凸が人工的なものか自然成因のものか不明。
  • 尖石の東肩が摩滅しており、これが「磨石砥」であることは明瞭である。
  • 尖石の傍らに1基の石祠がまつられ、「酉年小平氏」の刻字があるが建立年は不明。
  • かつてこの地を長者屋敷と呼び、かつては尖石以外にも岩石が集積していたといわれる。4軒の家で庭石に使われていたことが判明しており、そのうちの1個は前の堰に埋もれている。
  • ある人が尖石の下に宝があると信じて掘り進めたが瘧(オコリ)にかかって死んだため、誰もこの石の下を掘ろうとはしない。
  • 諏訪の御柱祭の折には、区から御柱を寄進していて、その関係で尖石の周囲にも御柱を立てている。
  • 正確な分析はされていないが、尖石の石種は地質学的に八ヶ岳天狗岳・硫黄岳起源の安山岩類と考えられる。
  • 尖石は尖石遺跡の南側斜面に位置し、この斜面の崖状地形には軽石などの火砕流噴出物がみられるが、そのような火山活動起因の巨石として尖石は存在したものと考えられる。


信仰・祭祀の観点からみると、やはり注目すべきは「磨石砥」である。

現地看板には「右肩に磨かれたような跡があることから縄文時代の石器を研いだ砥石ではないかといわれています」と記され、尖石が縄文時代に砥石として用いられていたという仮説を追認している。

※なお、尖石の周囲にあったという御柱は2023年時点では存在していなかった。遺跡整備の一環によるものかは不明。

現地看板


縄文時代の砥石が地上に露出し続けるという意味

さて、この仮説はどこまで信頼できるのだろうか。

他例では寡聞にしてこのような自然岩塊を砥石代わりにした例を確認していないが、もちろん石器を磨くための石材としての岩石はあっただろう。しかし尖石が縄文時代から今まで現存し続けてきたそれなのかには一考の余地がある。


最大の批判点は、この尖石が遺跡発掘調査前から地上に露出し続けていた点である。

尖石遺跡という名前がついているから尖石も遺跡の出土物かのように錯覚してしまうが、尖石遺跡はあくまでも地名としての尖石からの命名であり、尖石は遺跡地から南に行った斜面途中に存在している。

尖石が仮に地中に埋没したままならその地層の年代での出来事として保証はできるだろうが、地表上に出続けていたなら縄文時代以降も利用される可能性があったわけで、岩肌の摩滅跡が縄文時代と限られる保証はない。当然、現代までのいつかの時代の営為による痕跡の可能性もあり、その批判への返答が必要になる。


逆に、尖石は斜面中の岩石で高さ1m強の露岩であるため、縄文時代の時は埋もれていて、後世の斜面地形変化で後世に露出した可能性もある。

報告書によると、尖石の南側斜面は現在テラス状の平坦部が広がりその南にさらに斜面が広がる段状斜面地形を有するが、調査の結果このテラス面は後世に水田開発などにより人為的に形成された地形とみなされている。

また、報告書の記述を参考にするならばこの地には尖石のほかにもいくつか岩石が集積していたということあり、三角形の尖りを以て神聖視されたのが始まりだったのかどうかもわからない。

以上の内容から、現状の景観は縄文時代の風景と同じではなく、尖石が斜面に1m姿を現すこと自体を縄文時代のあれこれと直結するべきではない。


縄文時代の自然石信仰の候補遺跡―尖石の比較資料として―

以上の話とは別角度の疑問としては、砥石に使われた岩石が信仰・祭祀の岩石と言えるのかというテーマもある。

一般的にイメージすれば砥石は石材であり精神的な対象にはならないが、それは現代人の論理である。私たちと価値観の異なる人々において、石を磨くことが祭祀につながった可能性をゼロにできるわけではない。


では、磨かれて傷を負うことになる岩塊は、たとえば神としての岩石になりうるのか?

縄文時代以外の民俗例で岩石を欠いて薬にするなどの事例はあるが、結局そこは同時代資料で証明できない領域である。


ならば縄文時代の自然石信仰の可能性を匂わせる遺跡群との比較はどうだろうか。

管見のかぎりでは、船引・堂平遺跡(福島県田村市)、皆野岩鼻遺跡(埼玉県秩父郡皆野町)、合角中組遺跡(埼玉県秩父郡小鹿野町)、女夫石遺跡(山梨県韮崎市)の4事例を把握しており、それぞれの自然石の状態を下記のとおり紹介したい。


船引・堂平遺跡

縄文時代後期前葉の遺跡。山裾に立地。高さ約1.5m、径3mの花崗岩の岩塊群が出土し、傍らから石棒1点が直立した状態で伴出したほか、土器、石皿、凹石なども出土。岩塊群は主に4体の岩石が密集したもので岩石間に岩陰が生じている。一部の岩塊の裏には小石で裏込めがなされており人為的と報告されている。


皆野岩鼻遺跡

縄文時代中期初頭の遺跡。山腹に立地。高さ60㎝、幅、奥行き各2mの緑泥片岩の岩塊が出土し、岩塊の北面に生じた亀裂から石斧2点、岩塊の周辺には多数の焼石と土器が検出されたほか、南側から石棒が欠損状態で出土。岩塊は山の上の転石が落ち込んだ自然石と目されるが、岩肌の北面に細かい亀裂が多く確認されている。


合角中組遺跡

縄文時代後期前葉の遺跡。高さ50㎝、径1mの砂岩の岩塊が出土し、岩塊の傍らから石棒が2つに分割された状態で見つかったほか、土偶が不完全な破片状態で散乱し、土器も伴出した。周囲に配石遺構もあり。岩塊の長軸(南東-北西)方向に深さ40㎝の溝が岩塊上面を走っている。溝の底面に亀裂などが見出せないため人為的な溝と評価されている。


女夫石遺跡

縄文時代中期の遺跡。沢沿い平坦地の立地。高さ1.7m、幅、奥行き2.5mの岩塊が出土し、その傍らからミニチュア土器、石棒2点(1点は欠損)、土偶などが伴出。遺物包含土には焼土痕が検出された。岩塊には自然のものとみられる裂け目が確認されている。


※各遺跡の岩塊写真画像については当ブログ下記事を参照。

日本の岩石信仰は、いつどのように始まったのか?


自然石信仰の候補事例といいながらも、船引・堂平遺跡では岩塊に裏込め、合角中組遺跡では人為的に刻まれたと評価される溝などがあり、岩石へ手を入れたケースが報告されている。

その点で、尖石に摩滅跡が見られたことと対照は可能で、岩石に手を入れても祭祀遺構としての推測は成立されうることになる。

しかし、上記4例では岩塊の傍らから石棒がいずれも出土している(欠損・直立が混在)。土偶が伴う場合もある。尖石が弱いのはここだろう。地表にさらされていただけに縄文時代当時の状態がわからず、結果として尖石に伴出する遺物は確認されていない。この点で、尖石は上記4遺跡と相違が認められ、尖石を同種の遺跡としてみなすには根拠不足と判断される。


それにしても、上記4遺跡においては石棒の伴出もさることながら、岩塊の特徴として共通項も浮かび上がるのも興味深い。

  • 高さは2mに達せず、圧倒的な規模の巨岩・巨石として扱って良いかは検討の余地がある。
  • 人為・自然問わず、亀裂や溝、岩陰などの空間的な性質がみられる。

そう巨大とも言えない岩石と祭祀に関連が指摘でき、単なる自然石ではなく岩石の中に空間をみる傾向を重要視しないとならない。巨大であること、自然のままであることという要素とは異なる部分が縄文時代の祭祀には見られるのである。

自然石に凹部的な岩陰空間がみられたらそれをそのまま利用して、なければ人為的に彫りこみ凹部空間を作り出したということか、凹みに目的を見出したのか岩石の内部に空間を見出したかったのかなど、その評価は当然ながら難しいことであるが注目していきたい。今後の類例の資料数増加に期待するばかりである。


なお、尖石遺跡に接して建てられた茅野市尖石縄文考古館では、「集落に持ち込まれた(と思われる)巨石」というキャプションと共に、複数の不整形の岩石が館内展示されている。こちらも縄文時代の岩石と精神的なものとの是非を考えるうえで参考にしたい。

茅野市尖石縄文考古館 蔵

上写真を逆側から撮影。


2024年2月11日日曜日

2010年、茅野駅前から出土した大石(長野県茅野市)


長野県茅野市 茅野駅前縄文公園





SNSで不定期にバズる岩石である。

おそらく最初にバズッたのは2015年。当時の記事を紹介する。

「大きな岩が出てきた。きっと神様の磐座だ。駅前に祀ろう」→昔話かと思いきや、 たった5年前の実話(全文表示)|Jタウンネット


時系列でまとめると、元は2010年に茅野駅前の区画整理工事中に地下3mから出土したものであり、普通は破壊されるところ「丸い巨石」であることから保存されることとなった。

調査の結果では特に歴史性は認められなかった自然石のようだが、「丸い」「巨大である」といったところが、特別視された要素となるようで興味深い。


2023年には福島県田村市の産業団地工事中に、高さ約17mを筆頭とする複数の巨石が出土した。

こちらは現在進行形の出来事だが、自治体としては保存というよりはどのように破砕すべきかに苦慮している模様である。

茅野市の大石が高さ2mに満たず、ある意味で「同居が許容できる存在」なのに対して、田村市の巨石群は都市開発の生活に影響が出る規模なのは言うまでもない。

岩石に限らず、そこを生業とする人々にとって許容できる範囲なのかどうかは重要な要素であり、外野から物見遊山的に当事者の生活を圧迫することは安易におこなってはならないだろう。


なお、茅野市のこの大石は「現代人が岩石をまつった」という現代岩石信仰の事例として語られるが、真に祭祀していると言えるのか疑問を書いておこう。

2015年のバズの時に撮られた写真では注連縄が巻かれていたが、私が2023年に訪れた際は注連縄が巻かれていなかった。また、祭祀には祭祀対象たる神に対して定期的な祭りが伴うはずだが、そのような祭祀が継続的におこなわれているという話を聞いたことはない。それで祭祀対象と言えるのかということを再考しなければならない。

注連縄が一度でも巻かれたらそれは信仰なのか神なのか? 現代人の信仰イメージを考える試金石として注目している。