2016年3月7日月曜日

岡田杲師「豊山長谷寺の地主神(鎮守)に就て(其一・其二・其三)」(『豊山学報』第四号・第五号・第六号、1958年・1959年・1960年)

解題

  長谷寺普門院に勤める岡田杲師が、其一・其二・其三と三回に分けて著した、長谷寺の地主神に関する論考。長谷寺の地主神ということで、つまり与喜山の神に関する考察となる。
とりわけ岡田杲師の本研究の優れた点は、以下の通りである。

・秘蔵されている滝蔵神社の神像を拝観して、それを記録に残した。
・與喜天満神社の神像も拝観して、記録した。
・鍋倉神社の旧社地に「鶯墳(うぐゐす墳)」と呼ばれる、祭神・大倉姫命の墓とされる墳墓がかつて存在したことを記した(墳墓自体は破壊され現在正確な跡地も不明となっている)。
・北朝光明天皇の陵が與喜天満神社境内の「風吹き」と呼ばれる場所にあったと記す絵図(現在は行方不明)の存在に言及した。
・初瀬の旧家・厳樫家に「磯城の厳樫之本の旧跡を確認した」を記す著者・製作年不明の古文書があったこととその全文を紹介(古文書自体はその後紛失され所在不明)。ちなみに岡田氏はこの古文書の著者を本居宣長と推測している。

 與喜天満神社の神像は2011年、奈良国立博物館にも公開展示されたが、滝蔵神社の神像はおいそれと見れるものではなく、岡田氏の観察記録がいまなお貴重である。
さらに、鍋倉神社の鶯墳、光明天皇陵墓絵図、厳樫家古文書はいずれも現存せず、後学はすべてこの岡田論文から引用するしかない。よくぞ後世に記録保存していただいたという敬意がまず最初に立つ。

岡田は、滝蔵神社の神域から熊野五色浜で採ってきた玉石「マメダ石」が見つかっていること、滝蔵神社祭神である伊弉冊命・伊弉諾命・速玉命が和歌山県新宮市の熊野速玉大社およびその旧宮である神倉神社の祭神とほぼ一致すること、神倉神社の別名に竜蔵権現(たつくらごんげん)の名があり、タツとタキという同じ水信仰を共有する神号および自然環境を有することなどを傍証に、滝倉神社の祭神すなわち瀧蔵権現が、熊野の神倉神社の祭神と同神であるとする説を述べる。

神倉神社と言えばゴトビキ岩をまつり、熊野権現の最初の降臨地とも呼ばれる。そんな初瀬と熊野という離れた二地域の親和性を説くのが特徴的である。そして、初瀬の本地主とされる瀧蔵権現が、ゴトビキ岩に降臨する熊野権現と親和するという意味で、与喜山の磐座群との関係性も想像させてしまう。
ただし、瀧蔵権現が伝承上は初瀬の本地主だからと言って、本当に長谷寺の峯(小泊瀬山)あるいは与喜山(大泊瀬山)に元来鎮座していたかには検討の余地がある。
『長谷寺霊験記』の中で、瀧蔵権現は「我昔よりこの山の地主としてこの河上に往き」と述べているが、読み方によっては「昔から初瀬山の地主神であるが、いる場所は初瀬川の上流」と解釈できるからだ。
さらに、伝承上では神の遷座と読めるものの、実際に遷座が行われたかどうかは断言できない。

滝蔵神社の歴史的位置づけは複雑であると岡田は評する。
なぜなら、『類聚符宣抄』の中で、延喜21年(921年)に滝倉明神が正四位下の神階を賜ったことが記されながら、延長5年(927年)完成の『延喜式』神名帳には記載されていない神社だからだ。
式外社だから、国にとって軽視されていた神という一般的論法はこの場合通用しない。滝蔵神社の場合は正四位下の神位を持ち、かつ、一部の神にしか称されない明神号で記されているからである。
現在の諸研究においても、なぜ滝蔵神社が延喜式内社とならなかったのかは不明とされている。

そんな中で、初瀬の延喜式内社として記載されているのが堝倉神社(鍋倉神社)。その鍋倉神社にあったという鶯墳の存在もまたミステリアスである。
『長谷寺密奏記』によれば、鍋倉神社の最も古い鎮座地は与喜山の頂上とされており、その後、山裾の與喜天満神社の南西に遷座し、さらに明治時代の神社合祀により現・素戔雄神社の境内に合祀された。
それなのに、鍋倉神社祭神の墓とされる鶯墳が、元来の鎮座地とされる山頂ではなく、與喜天満神社の南西にあるという事実に着目したい。堝倉神社は本当に山頂に元来鎮座していたのかという疑問も湧く。あるいは鶯墳の伝承が後付けなのか。あるいは、堝倉神社の社殿と祭神の墓所が離れて成立していたのか。鶯墳自体が真の墳墓であったのか地形上の高まりをそう認識しただけだったのかなど、解釈の幅は広がる一方で枚挙に暇がない。

厳樫家古文書の著者が本居宣長という説は、あまりにもビッグネームすぎてむやみに肯くことができないが、この著者が「磯城の厳樫之本であることを確信したという旧跡」とは何だったのか気にかかる。
この著者が別に書いた『御旧跡考』という文献に詳細を記したらしいが、その文献もいまだ発見されていない(もちろん、本当に存在した文献だったかどうかも分からない)。

初瀬に残るもう1つの延喜式内社・長谷山口神社の祭神が、本来は大山祇命であったのに、中世には天手力雄命が主祭神に取って代わったのも、与喜山の歴史を語るに重要な論点である。
山口神社という性格を持つ場でありながら、半ばここも国譲りのごとく、祭神が立ち替わっている。
藤原氏による伊勢神宮の影響なのか、それとも、そもそも『延喜式』神名帳に記載された長谷山口神社が別の場所で、中世に手力雄社と混同されたのか。

また、岡田論文では触れられなかったが、近江国高島の三尾神から端を発する白鬚神社、与喜山の北方の川上で落神伝説を残す賀茂大明神も、地主神というわけではないが、それぞれ単体で考えれば「なぜ初瀬の地に」という疑問が残る。
そこに、与喜山中の陰神・陽神・光神・雨神、仙宮の滝や「のぞき」、民俗的な杉髙講の流れまで組み込んでしまえば、あっという間に与喜山の複雑怪奇な信仰史が誕生する。

今後の与喜山研究の中でも、看過することができない重要情報を記録する研究として、岡田論文は評価されるべきである。


重要部分引用(原文ママ)


与喜山の名称について

大泊瀬山(オオハツセヤマ)・因曼荼羅胎蔵峰(インマンダラタイゾウノミネ)・三燈峰(サントウノミネ)・一代山(ヒトヨノヤマ)・日出山(ヒノデヤマ)・天神山(テンジンヤマ)・与喜山(ヨキサン)・八色岡(ヤシオガオカ)など種々の名をもつて呼ばれる。

堝倉神社と鶯墳について

鍋倉社の祭神は、地祇の統領たる大国主命の娘、大倉姫命で、またの名を下光姫、或は鶯姫と呼ばれ、(中略)神域の背後一帯を「鶯墳(ウグイスヅカ)」といい、そこに六尺ばかりの自然石に「うぐゐす墳」と彫られた標石が建てられていたが、明治十五年、陵墓治定の宮内省の声に驚いた長谷寺当局や地元民が・・・北朝光明院の陵墓決定・・・・・・と早合点して多数の人夫を集め、一夜の間にこれを破却し、標石も地中深く埋めてしまつたと、其の時の人夫の一人であった高倉楳三郎という老人が語つてくれた。せめて標石を埋めた場所でも案内してほしかつたが、病床にあつた老人はいづれ達者になつた暁にというたまま、昭和十八年四月八十歳で世を去つた。折角の鍋倉社の神秘もおおかた消えてしまつたわけで、いかにも残念である。

光明院の陵が与喜山に存在した説について

光明院の御陵墓については、長谷か勝尾か異論あつてなかなかに決せず、仮に勝尾寺に定められたが、当時の皇室の権威の前には何物も抗議は許されず、若し「うぐゐす墳」がその陵墓ということになれば、寺も地元もいかなる処遇に遭うか、過大の風評が遂に明治十五年の墳の破却などという乱暴な事件を惹起したのである。(中略)一日、何気なく書庫へ入つて私が取り上げた古書の間から、大型半紙に画いた一葉の図が現われた。朱・胡粉・緑など数色を用いて墳墓の略図を画き、その上部に「人王第九十六代光明院様陵墓之図」と墨書してあり、紀年銘はないが、紙の古さからみて、二、三百年前のものかと思われた。それによれば「うぐゐす墳」とは正反対側俗称「風吹き」という与喜天神社手前の右方、山の背にあたる箇所で、今も小高い盛土の墳状をとどめている。写真撮影を願つたが許されず、模写を乞うたがそれも駄目、そのまま宮内省へ持ちかえられたようであつた。(中略)おそらく米機の爆撃により宮内省と共に、あの貴重な図も一片の煙と化したであろう。更に思うは、この図さえ早く長谷寺役職員に知られていたら、「うぐゐす墳」も明治十五年の破却を免れていたであろうということである。

厳樫家所蔵の古文書について

当町の旧家で屋号を「鍵屋」という厳樫(イヅカシ)家には、古くから長谷寺第三十二代能化法住僧正の書かれた「厳樫大明神、手力雄大明神、豊秋津姫大明神」の神幅を蔵し、また左掲の古文書をも併せ伝えていた。この文書は先代の玄一氏が昭和十五年頃携えて、大神神社の遠山宮司を訪ねて考証を乞い、その皈途省線三輪駅で混雑にまぎれて紛失してしまつたが、幸に写真が残されているのでこれを拝見させていただいた。全文を掲げよう。
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磯城の厳橿之本に皇太神宮を鎮奉りしと纏向珠城宮御宇垂仁天皇の御巻に見えて可けまくもかしこき御旧跡になむ有ける。しかるに中世より漢土の孔孟の道天竺の釈氏の教なと尊むことのはしまりてより千早振神代より伝にし古き跡のことなと稍おほはれぬへくなり来にけり。うたてき事の限りなりけり。しかるに御代泰平になりてより万の道くはしく白玉椿つはらかに弁へぬへくなりて我皇国の石上ふりにし事実をも探り考へて彼なむ神代の何の御跡是なん上代のくれの古地なととしるへする書籍の継々世にいて来にけり。嬉しきことの極みならずや。されと此厳橿の本なとは先哲も尋ねわつらいて或は出雲、白川村の旧号なとといへるのみにて定かに考得たる実証もなかりしにおのれ此初瀬里の鍵屋某の厳橿氏と名のり給ふことを見いててより鍵屋の叟に尋ねて古跡を探覓めぬれは闇夜に燈を得たるが如く明らかに実地を得たり。厳香斯之本の左右に手力雄命豊秋津姫命のましますも大神宮儀式帳と符合して古を今のうつつに見る心地こそすれ。此実地のくはしきことはおのれか著はす御旧跡考にいふへし。この旧跡を訪ね得たるは鍵屋の厳橿氏の賜ものなれは一くたり書つらねて送るとてよめる歌
日の神のいつかしのもとあらはれて 叟か家にも光ならすや
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 問題の磯城厳樫之本を考証するについて極めて重要な文書であるが、惜しいかな記年銘もなく筆者名もない。おそらく包紙か添紙にはそれがあつたろうが、すべて行方不明、所有者も冥界行き、なんともいたしかたがない。文中「おのれか著はす御旧跡考にいふへし」とあるより、その書を探しているがいまだに見つからぬ。しかしおよその見当は、本居宣長大人が、当町森町の関東屋(当主河井寿夫氏)に滞在し、幾点かの筆跡を残しておられる。その文字とよく似通うところから、この文書の主は宣長大人と想像される。もし大人が文中に見られるように、厳橿の本を実地に見て従来の疑点を氷解する喜びに感激したというなら、いつたいそれはどこか。与喜天神の社域か、化粧坂のほとりか、まさか初瀬川を一里半もさかのほつた桜井市小夫の天神社ではなかろう。是非「御旧跡考」なる書を見たいものである。

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