2016年9月23日金曜日

會津八一「一片の石」~『日本の名随筆 石』を読む その10~

――石は案外脆いもので寿命はかへつて紙墨にも及ばないから、人間はもつと確かなものに憑らなければならぬ。

今まで紹介した随筆群とは毛色が異なる。

石は堅固で、恒久性の象徴として描かれることが多かった。
會津八一はそうみなしていない。
厳密に言えば、石が一般的にそのようにイメージされていること自体は理解しているが、そのイメージが実体とは違うと指摘するのが本論である。

――石といへども、千年の風霜に曝露されて、平気でゐるものではない。

それは、古い墓石を遡れば遡るほど、人が死に、造られた墓石の数は累々たるものであるはずなのに、現存する数が造られた数に比して少ないと目されることからもわかる。

その原因は、火災などの自然災害に起因するものもあれば、人が押し倒して墓石を蔵の土台や石垣の下積みなどへ再利用したケースもあったのではないかと會津は思いをはせる。

會津は、 中国・晋王朝の偉人として知られる羊祜と杜預のエピソードを紹介している。
羊祜は、山が宇宙開闢から変わらぬ形であるのだから、私の死後、私を思い出してくれる人がいるなら、私の魂魄はこの変わらぬ山にあるだろうと言い、死後、それを聞いた人々が羊祜を顕彰する石碑を建てたという。
杜預は、自らの業績を刻んだ石碑を二基造らせ、一基を山の上に、一基を海の底に沈めた。後世、天変地異が起こって山が海に沈んだとしても、逆に海底の石碑が地上に現われるだろうと踏んでの策だった。

はたしてこれらがどうなったかというと、杜預の石碑は二基とも行方知れずとなり、羊祜の石碑も死後270年を経過した頃、破損が目立ったため、摩耗した石碑の残石を用いて文字を彫り直したということである。
しかも、一度修繕したはずのこの石碑が、後代、唐の李白の歌に読まれているのだが、そこでは石碑どころか一片の石と化しており、そこには苔が一面に覆っているありさまだったという。

羊祜・杜預の著作は後世に残っているのに、紙よりも頑丈と信じられたはずの石が、期待に反して後代に残らないこの不思議さに、會津の関心興味はある。

このような石の現実があるのに、人間たちは根気よく、今も石に頼り続けている。
いつもでもこの世にとどめたいと思うものを欲するために、石は用いられる。
石がまるで故人であるかのように拝まれる。
その石が大きいほど貞女孝子と褒められる風潮がある。
會津から言わせると、これは極めて滑稽な現象ということにならないか。


では私は、會津が触れなかった視点を1つ述べてみたい。
人が人工的に刻み、置くのが石碑である。置かれた場所は自然のままではなく人間の意思が介在し、自然が造った石肌のままでもなく、人が刻みを入れた加飾によって石碑はできあがる。

その石碑が、僅かな時間で摩耗し、消滅してしまうという話である。
それは、石本来が持つ特性を生かしているようで、生かしていない。

自然の場所に根ざし、自然の肌を持ったままの石は、悠久の姿を保っているものも多いのではないか。
また、人の目につきたいという欲のもと造られた石碑よりも、人が目につけていない自然石こそ、逆説的に長く生き永らえるという性質が得られるのではないか。

石の性質をあれこれものしたり定義付けるのも、人間の意思の介入しだいな気がする。

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