2017年1月16日月曜日

澁澤龍彦「石の夢」~『日本の名随筆 石』を読む その11~

――自然が石の表面に意味のある形象を描くわけはないので、これを意味のある形象として捉えるのは、もっぱら人間の想像力、いわば「類推の魔」であろう。

澁澤龍彦は、極めて理性的である。
批判主義者好みの出だしであるが、ここからどう話を展開するのか。
――あたかもロールシャッハ・テストの図形が、ひとたび私たちの目に「花」として知覚されるや、もうそれ以後、どうしても「花」以外のものにはみえなくなってしまうようなものだ。

でも、これは否定的な意味合いで書かれていない。次にはこう来る。
――こうして、無意味な形象が夢の世界の扉をひらく。

昨今の、様々な人の石に対する見方や意見や仮説を見るかぎり、私にはまったく思いつかない、時には相容れないような価値観に出会うことはしばしばである。
時代のトレンドによって形は変われど、昔も今も石への想像力は衰えていないと感じる。

澁澤は、ローマ帝国時代のプリニウス『博物誌』の石の記述から、中世の学術書や詩にいたるまで、数々の「石の夢」を紹介していく。
――当時の自然哲学的な考え方によれば、石や鉱物は生きているのであり、地下で成長したり、病気になったり、老衰して死んだりするのである。
――パラケルススによれば、長く土中に埋もれていた異教徒の古銭は、だんだんと石に変化してしまう。 

澁澤はこれを、価値のある金属が土中という"適切ではない環境"に置かれることで、"石"という"価値のないもの"に悪化したと解釈している。
「異教徒の古銭」という立ち位置が、他の解釈も夢想させるあたり、石の夢は果てしない。
「異教徒の古銭」に、価値はあるのだろうか。変化した「石」は、悪化ではなく、浄化かもしれない。あくまでも敵にとっては。

ここから、澁澤は数々の石の夢想家の例を著述する。




アルドロヴァンディの『金属の博物館』(1648年)


それまでの学者が紹介したことのある「絵のある石」を漏らさず収録した鉱物学書。
「王冠をかぶった王」「磔刑のキリスト」「森の人間」「鯖の形をした大理石」の形をした石などが取り上げられている。

なぜ学者の学術書を取り上げるのか?と思ってしまうが、当時の鉱物学は、現代の科学とは趣が異なり、人間の空想と当時の宗教・歴史的背景によって創造された、科学的根拠のない「科学」書の時代だった。
科学であれば、その人の主観からは離れた内容になるが、当時の学者はいわば妄想の塊。
学者である分、その妄念の度合いは突き詰められており、それが人の抱く「石の夢」を最大限増幅させたケースとして学ぶことができるのである。

澁澤いわく、『金属の博物館』は本文より挿絵の方が「はるかに面白い」という。通称「自然のイラストレーター」の名を持っていたとか。
本書の場合、言語化されたものを絵画化したものが先なのか、まず目で通したものを絵画にしたものを後に言語化したものなのか、それによっても脳内の処理は異なりそうだ。

アタナシウス・キルヒャーの『地下世界』(1664年)


絵のある石の形成原因を「科学的」に追究した一書。
  1. 偶然
  2. 土地が母胎となって石化を促す作用
  3. 相似の形態を固める磁気作用
  4. 神聖な天の作用
この4つを説明した上で、それによってできた絵を、絵のジャンル別(天体・風景・都市・動物・キリスト他)で分類する。極めて冷静に。

キルヒャーの「石の夢」は、「植物も石も同じ土地から生ずる」という着想と、それにキリスト教的世界観である「神の摂理」を混ぜた理論体系である。

「たとえば土の中に置き忘れられた祭具や十字架が、或る期間を経過すると、土に痕跡を残す」が、「神の摂理によるのでなければ決して良い結果を生じない」という。

すなわち、大理石に十字架や樹木の風景が浮き出たものがあったとしたら、それはもともと実物が土の中で、土が母胎となることで石に絵を残したもので、それを残したのは神であるから、その大理石も宗教性・神秘性を帯びるという扱いになる。
時代は変われど、無意識のうちにこのような思考で石を神聖視する人はいるのではないか。学者であるキルヒャーが執拗にこの思考論理を開陳したことで、岩石信仰の1つのパターンが見えた気がする。

さらに、このような大理石はフィレンツェ大理石として、16~17世紀にかけてヨーロッパの富豪たちに高額取引がされていたという。
しかも、この絵が浮き出た大理石に、画家がさらに様々なモチーフを描き、1つの絵画作品として仕立てた例が今も残るという。
自然の石が人のインスピレーションを触発したり、自然現象を人の心で補填・上書きしようとしたりと、石と人の関わりは留まるところを知らない。

他に澁澤が「石譜」の中に挙げる著名人として、

木内石亭

幼い頃より石を愛玩する精神

アブラハム・ゴットロブ・ウェルネル

岩石水成説の鉱物学者。収集した石の標本を家族のように愛した。

C・G・ユング

少年の頃、ライン河で拾った、つるつるして長楕円形の黒石を、上と下で色を変えて塗りつけて、ズボンのポケットに忍ばせていた。ユングは石のことを「存在の知れぬ神秘」で永久に滅びないものと考えたという。


澁澤は「ここで忘れずに触れておかねばならないのは、やはり石や鉱物を愛好する精神としてのドイツ・ロマン派の存在であろう」と述べる。
その例として、

ハインリヒ・フォン・オフテルディンゲン

老坑夫に導かれて鉱山のそこへ降りていく

ホフマン『ファルーン鉱山』

母体と石棺を同一視する

ティーク『ルーネンベルク』

岩石や鉱山の魅力にひかれて、家庭を捨てて山に入る

アンドレ・ブルトン『石の言語』

古今東西の愛石家、石に取りつかれた人々を紹介する(著者注:この本はまた読みたいものである)

ビンゲンの聖女ヒルデガルト

ダイヤモンドを口に含めれば、嘘をつかなくなるし、断食もできると言った


澁澤は、ガストン・バシュラールの立場に立って、石をこう総括する。
――大地に所属する石は、何よりもまず、源泉への回帰をあらわすシンボルなのではあるまいか。

源泉ということで、生と死、始まりと終わり、永久や永遠の安息といったモチーフと石は密接に絡まって語られるとのことらしい。
これと同じ意味合いを持つ一文が次にある。
―― 石のもつそれ自身の美しさ、それ自身で完結し、もうこれ以上手を加える必要の全くない美しさには、芸術作品のあたえる感動よりもはるかに以前の、人間の心に直接に触れる、原初の喜びに近いものがあるにちがいない。
 ――石は作品ではないのである。石は芸術の対象ではなくて、おそらく魔術の対象なのである。
神や霊が石に具象化される理由も、ここにあるそうだ。

私は、かねてより美しさと神聖さの境界線というか、違いについて疑問を持ち続けていた。
美しさは、清浄さや高潔さや無垢さとイコールとは思えない。グロテスクさや生々しさや混沌の中に美しさを感じることもあるのではないか。

神道がケガレを嫌うというのも多分に後世的な思想の影響によるイメージであるし、信仰の始まりが教典や理念からスタートするとは限らないからだ。
とりわけ、恩恵と災いの両面を有する自然信仰においては、一面的な美しさというのは考えにくい。

ここで岩石に目を向けてみると、宝石のような無垢で輝きのある岩石から、まだらな模様が混ざり合い混沌の象徴のような岩石まで、岩石の模様・外見というのは果てしない。
すべての岩石を愛する人というのも、果たしてどれだけいるのか。

愛石家もいくつかのパターンに分かれる。
宝石にだけ興味を示す人も、分類上は愛石家のひとつであろう。でも、私は研究対象としては宝石も含めるが、個人的嗜好では宝石に惹かれることは少ない。家の路傍に落ちた砂利石や川原石に興味が惹かれるが、ひとたび盆石として切りとられると食指が向かない。
岩石にも、イメージ通り市民権を得ているような美しさを持つものから、生々しくカオスで非統一的な態様の岩石に美しさが潜むと感じる人がいる。
岩石でひとくくりにされる存在の、実際のところの幅広さを示してはいないか。

最後に、澁澤は石の内部が中空になっている鷲石・魚石などの奇石に言及する。
特に、ロジェ・カイヨワの『石』に登場する、中に水がたまっている奇石に紙幅を割いている。
――その水は地球の発達の歴史を知らず、天水を通じて循環することを知らず、溶けた鉱物が固結する過程に、ふと落ちこんだ空洞のなかに捕えられたまま、二度とふたたび出ることができなくなってしまったという、いわば童話の「塔に閉じこめられた姫君」のような、処女の水ではないだろうか。

このような、中に空間がある石の中身を見たいという希求は、ヨーロッパにも中国にも日本にも同様の説話が見られるという。
なにか共通した人間の欲求なのだ。

空間が実際にはないのに、中に神を宿したり内部に何者かが入りこむという、「蔵」的な岩石信仰が日本列島各地にも散在している。
奇石だけに許された特権とも思えない心理を感じる例である。

鶏が先か卵が先かという話になるが、私たちが奇石怪石に対して抱いた感情が岩石信仰にとっての源なのか、それとも奇石怪石と感じない岩石にこそ感情の源はあるのか、それとも同時併存なのか。
岩石信仰を巡る人の感情に対して多くの示唆と問題意識を与える名随筆だった。

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