2017年6月18日日曜日

石に踊る~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その3~

ここで徳井氏は、石と岩石と鉱物の3つの概念について整理している。

石は、岩石と鉱物を含めた包括的な概念とする。

石垣・石臼などの具体的な用語に冠せられるだけでなく、石頭や「石の上にも三年」などの抽象的な言葉にも使われるのが「石」であるため、学術的には「石」という言葉を使用することは漠然で難しいとしている。

岩石と鉱物は"群衆と個人"にたとえられるという。
鉱物学者の益富寿之助の考えによるものらしいが、いわく、

「岩石は何の秩序もなく集まっている群衆のようなものである。」
「鉱物はただ一人ポツンといる人間のようなものである。」

この場合における「群衆」とは、あまり肯定的な意味を持っていない。
石もなく、個性もないといった意味で、群衆といった言葉が使われている。無秩序が、マイナスイメージで理解されている。

一方の「個人」は、自立していて、のびのびと自らの個性を出しているという、プラスの意味で使われている。
個人主義へのあこがれが強かった時代背景も、あるかもしれない。

このイメージ付けに正解はないと思うけれど、私は、輝かしい価値を皆が感じる「鉱物」よりも、一顧だにされない「岩石」のカオスに惹かれる。

――自分が採った石はね、ひとつひとつに思い出が詰まっとります。

――自分の石見てるとね、日記つけてないけど、ついとるんです。

鉱石が採れる滋賀県田上山に、休日をつぶして年間50日通う"石ぐるい"、小林進さんのインタビューである。

――宝石屋の石を見ると、ちょっと淋しい気がするね。完全に加工してあって、僕らにはガラスか何かわからへんもん。見た目では同じのがいっぱいある。

宝石が無個性なら、"鉱物は個人" という先の論理からはズレてしまうが、つまりは論理ではないのだろう。
群衆と個人は、時代背景色濃い後天的な哲学と感じる。

同様に、宝石に価値を持つ"石ぐるい"も否定されるものではなく、どちらもいて当然と言える。
だから、石を通して人が見える。

――これはね、腐らへんのですわ。いつまでもなんの手入れもしなくても、九十九パーセントの石は、僕がもってるあいだなら原形を保っていてくれる。

石の永遠性。
同時に、人の非永遠性がコントラストであぶりだされてくる気がする。

人は、石を踊らせることはできない。いつも、人は石に踊らされる立場でしかない。
無常感は人に不安感や悲壮感を連れてくるが、石という不安も悲壮もなく踊らされることもない存在に出会うことで、人は心を踊らされる。

石を見つめることで、人が不安定で小さな存在であることを自覚する。
そう内省することで、ある人は謙虚な面持ちになり、ある人は自然へのまなざしを変え、ある人はそれに抗おうと自らを成長させるのかもしれない。

――人間の永遠に生きたい、という気持ちとつながっているのかもしれませんね。

小林さんが言及する哲学的な部分。
本来は、意識していなかったのではないか。
インタビュアーに聞かれたから、言葉を探してきたまでで。

言語というのは、本心と必ずしも一致しないのに、言葉に乗ると話者を離れて独り歩きするパワーがある。
研究者としては、他山の石としたい記述だった。

――僕はグチャグチャとした粘土のような石が嫌いです。直線のある石、透明度のある石に惹かれるんです。

"石ぐるい"にもいろいろいて。

私は、石を集めることはしないけれど、グチャグチャとした粘土のような石、好きです。


2017年6月11日日曜日

いちべ神社

職場に届く四日市プラトンホテルのチラシ

5月の表紙


そりゃあ反応しますよね。

どこだこれ。


鳥羽市のホテルマリテーム海幸園の敷地内にある「いちべ神社」だそうです。

「抱きつき聖石」のパワースポットとして、名所になっているとのこと。

歴史的経緯を知らないので、私はそっち目線で気になってしまいます。


2017年6月8日木曜日

石に落ちる~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その2~

――石ぐるいの圧倒的多数は、どういうわけか男性である。

巨石ガールという名前がかつて作られたように、本当か?と思う。

よく読むと、この石ぐるいは「石を集める」ほうの石ぐるいに限った話だった。

でも、宝石を好むのは女性というイメージがある。
いずれにしても、「石を訪ねる」ほうの石ぐるいについて照準が当てられていないのは残念だ。

――石ぐるいに半端でない憑かれかたをしている人が多いのは、たぶん石の性質によるところが大きいように思われる。あるいは石には独占欲の強い女のようなところがあって、すべてを捧げられないなら、いっそさっさと荷物をまとめて去ってしまおうという薄情なところがあるのにちがいない。

江戸時代、石集めに人生の大半を捧げた木内石亭に対する徳井氏の評の一つである。

女性の性質に例える辺りが女性らしい視点で新鮮だが、山の神の女性信仰にも通ずるところがある。
石の性質を人に例えるのも、中近世に遊行して庶民に仏法を分かりやすく説いた聖たちと同じアプローチに感じる。

石の性質は、人に通じるのだろうか。

――私は何人かの石ぐるいたちに同じ問いを投げてみたことがある。誰もが長いあいだ考えこみ、ぼそぼそと言葉少なに語られた答は、きわめて漠然としたものだった。「美しいから」「永遠だから」「同じものがひとつもないから」・・・・・・。どの答もあとから思いついた言いわけのように聞こえるのだった。

「石集め」の石ぐるいの話ではあるが、「石訪ね」に興じる私に問われても、こんな感じである。

昔から言っているが、人に石の魅力を語る時が、いまでも一番難しい。
そんなの、もう見てください、という気持ちでいっぱいいっぱい。
でも、無理矢理見せても共感性は得られないので、そもそも魅力を口に出したり、薦めたくもないという考えも湧きたつ。

自分から動いて出会った人にだけ、同じ気持ちが抱けるのではないか。

もう1つ言うと、同好の士と石の話をしたとしても、結局、私はあまり石の魅力を語ったことがないし、語れる力量を持っていない気がする。

口に出した瞬間、石の魅力の10分の1も語れていない自分を自覚しているので、石に対して失礼という感情が勝るのである。
だから、石ぐるいは黙るんじゃないかなあ。
少なくとも、私はそうです。

徳井氏はここから、石にのめりこむ理由などないのだと断じるが――もちろん後付的、理屈的な理解であれば無意味であるが――、それでは納得しない自分もいるので、今しばらくあがいてみたい。

2017年6月6日火曜日

岩上神社(京都府舞鶴市)


京都府舞鶴市寺田

岩上神社(舞鶴市)

寺田地区の産土神。

岩上神社(舞鶴市)

石垣を積んでいるというわけではなく、自然の石灰岩の上に社殿を建て、階段を敷設している。

岩上神社(舞鶴市)

岩上神社(舞鶴市)

京都新聞の記事『岩石と語らう 133 岩上神社』(1999.6.22)で当社が特集されている。

同記事によれば、2億年以上前の石灰岩層が露出した大きな岩塊の上に社殿を建てたのが岩上神社で、由来は不詳ながらも、一説には神社の裏山に中世築かれたという寺田城の守護神だったともいわれる。

ほかにも、大事なものをなくした時に神頼みをすると必ず見つかったという話(いわゆる民俗学でいわれる膳貸し伝説)や、産後の乳の出を祈願する信仰があったと伝えられる。
石灰岩という白乳色でふくらみをもつ岩質が、乳の出の信仰につながるのだろうか。

二つの川の合流点近くに立地するという山裾の自然環境も、信仰の要素とは無縁ではないと思う。