2017年8月20日日曜日

うごめく石 気まぐれな魔女~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その8~

――誕生石の説明に、いまも「トパーズは純潔、ガーネットは快活、サファイアは慈愛・・・・・・」などと書かれているのは、単なる象徴でも思いつきでもなく、そうした美質が本当に宝石にそなわっていると信じられていた時代の名残である。

石の魔性と、石の気まぐれな性質について取り上げられた章である。

宝石やパワーストーンが、単なるこじつけではないことを、歴史的な経緯から説明している。

十字軍の際、兵士がガーネットを携えた。

ナポレオンが、出征の時ダイヤモンドを携えていた。

宝石は、ヨーロッパでは「天体の光が凝縮したもの」と信じられた。
ヨーロッパの宝石信仰である。
宝石が天の上の世界(天体)とつながっていて、天上界の力を借りられるという信仰は、ギリシャ・ローマ時代よりも以前、古代バビロニアまで遡ることができるという。

そんなバビロニア由来の宝石信仰は、ヨーロッパでキリスト教世界観が誕生するに伴い、天体から天上界、そして天使の象徴へ姿を変えた。

12世紀のドイツの修道女ヒルデガルトは、そうしたバックボーンに自らの心性を込めて、どの石がどのような天使の倫理的美質を備えているかを定義づけた。
これは、現在の誕生石の説明につながった。

――歴史の一場面、一場面にもし立ち会うことができれば、登場人物の多くが石のお守りを所持していることに驚くだろう。ある時代には特別の力をもつと信じられた石がべつの時代には忘れられ、また再び思いだされて、誰かのポケットにひっそりと入っていたり、ドレスのボタンとして縫いつけられていたりするのだ。


日本では、古く『古事記』に載せられた話では、神宮皇后が腹に石をしのばせたことで陣痛を鎮め、三韓征伐に赴いたという鎮懐石伝説がある。

なぜ、腹に石をしのばせると、そこの痛みが鎮まるのか?
そこに万人を納得させるような理論的説明は、何も書かれていない。

それなのに、この文献には堂々と鎮懐石伝説が書かれ、少なくとも書かれた当時の読者を圧倒したわけである。

――中国とヨーロッパでは、突出したかたちで玉と宝石が神聖視されたが、日本においては、石がただ石であるというだけで神として扱われてきたようなところがある。

「とくに日本の国は、石の形に暗示的なものが多い」と語った小泉八雲の話に通ずる。

八雲は日本の石の信仰を「天然物の形からくる暗示」と表現した。

宝石も削り出されて加工はされているが、石の輝きと色・模様が天然物であるから、それによる暗示もあるだろう。
中国由来で日本の古墳文化でも根付いた「玉(ぎょく)」の重宝もこれに基づくものであるし、遠く縄文時代の翡翠の珍重も、縄文人の心性まではわからないが日本の宝石信仰と言えるかもしれない。

その一方で、宝石ではないただの自然石を、一切加工することなくまつりあげるのも日本列島には多く見受けられる。

同じ石だが、これはあくまでも、現代人が石と定義した中での発想。

古代日本において、宝石信仰と自然石信仰は同系統にくるまれるものか、別系統の心性によるものと捉えるべきか。

こう疑問に思う理由の1つに、私自身が、宝石にまったく惹かれず、路傍の石のほうに惹かれるという個人的な興味関心がある。
私個人が、なぜか同じ石でありながら、その2者に明確な線引きをしている。

もちろん、宝石と言ってもその種類は多様であり、ただの石との線引きも当然明確ではないから、どこからどこまでか、というとグレーゾーンはある。

私自身が、宝石は上でそれ以外の石は下という現代的価値観にとらわれていて、宝石に対してはねっ返りがあるだけなのかもしれないことは、書き添えておきたい。

人間は、後天的に学習してしまうと、もはや色眼鏡から逃れることはできない。
自分をもはや客観視できないので、結論は先送りにして、さらに多くの情報を浴び続けていこうと思う。

――現代の呪う石で印象的なものにハワイの火山の話がある。ハワイ島の公園管理局には、毎年、膨大な量の石の小包みが送り届けられ、年によっては総量が一トンにのぼったこともあるという。(略)これによく似た現象はオーストラリアのエアーズロックでも起きている。(略)国立公園に指定されたことから観光客が登るようになり、なかには石をもち帰る人がいるらしい。公園事務所に送り返されてきた石はコーラの瓶に詰まった砂から一抱えもあるのに及び、その多くに病気、事故、破産など不幸の報告と懺悔の内容の手紙が添えられているという。

石の魔力は、人に利するだけでなく、人を害する「気まぐれな魔女」であると評するのが徳井氏だ。

「幾十万年来、人間の伴侶であり、無言の庇護者であった石が毒素を吐きつづけ、人を殺しつづけるということはわれわれの存在の基盤にかかわること」と説いたのは宇佐美英治である。

人が石から恩恵を浴び続けると、その揺り戻しで、石から強い反発と災厄を受けると思ってしまうのではないか?
石を、別の単語に置きかえてみてもいいかもしれないが、石の哲学は人間研究に他ならない。


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