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2018年3月23日金曜日

那智の七石(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)



熊野那智大社・那智大滝の存在で知られる那智山には、那智の七石と呼ばれる7体の岩石がある。

鏡石・唐斗石・平石・三ツ石・降石・笈掛石・烏石の7体のうち、平石・三ツ石・降石を実見できた。
鏡石・唐斗石は場所がやや離れていたため看過。
笈掛石は熊野那智退社と青岸渡寺の間にあるというが、工事中で幕などで覆われ見つけることができなかった。
烏石は大社の拝殿奥にあり正式参拝が必要とのこと。

かつて、この那智の七石についてまとめられた文章を立命館大学の文献史料室で見かけたことがあるが、その時に熟読せず複写もしなかったため、今となっては何の文献だったか思い出すこともできない。

那智七石
平石

那智七石
三ツ石

那智七石
降石

降石の背景には那智大滝も望むことができ、隠れた美景である。

2018年2月19日月曜日

俱盧尊佛/黒尊佛/鉾島(和歌山県田辺市)


和歌山県田辺市本宮町大津荷字津荷谷

俱盧尊佛
村の東谷にあり高さ十餘丈の巌をいふなり疱瘡神と崇む又鉾島ともいふ邑民奉祭する者より疱瘡護符を出す
(天保10年、1839年完成『紀伊続風土記』http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765519 国立国会図書館デジタルコレクション108ページ参照)

現地では黒尊佛(黒尊仏)とも表記されるこの場所は、インターネット上でもいくつか探訪記がUPされているが、これらの記述だけでたどりつくのは至難ではないか?

何を隠そう、私は各インターネットページを参照した上で昨夏に一度現地を数時間探索しましたが、見つけることができずに一度断念しています。

その後、現地を知る方から詳細な道順を教えていただき、先月末に再訪を決意。
結果、これでも一発では辿りつけず、迷ってしまいました。

発狂しながらあちらこちらの谷をしらみつぶしに踏み入った結果、何とか発見。
半年越しの報告と相成ったわけです。

苦労して見つけると達成感はあるものの、それはある種の勘違いでしょう。
プレーンな気持ちで、岩石を見ることをおすすめします。
思わせぶりな記述で濁して後続の方には同じ思いをさせたくないですし、あちこちに踏み跡をつけることが良いこととは思わないので、ここにできる限り詳しい行程を掲載しておきます。
道は、歩かれてこそ道になるのです。

ということで、さっそく出し惜しみせず黒尊佛へのルート図を掲載します。
(以下、一度見た方向けではなく、初見の方向けに書きます)


正確な縮尺ではないのであしからず。
林道終点から、沢沿いを進む道と斜面上を行く道の大きく2ルートあるのが、逆に迷わせます。
終点すぐに坂を登り斜面上を進むルートの方が、結果としては分かりやすいです。ただ、最初の踏み跡が細くて分岐も多いので、初見で正しいルートを見つけられるかが運命の分かれ目だと思います。

何回か渡河することになりますが、増水していなければ足をぬらさずに、じゅうぶん渡れる沢です。
(雨天翌日など、増水時は渡れないとの情報もあるので注意。当日だけでなく前日の天候も考慮してください)


黒尊佛への取りつき口となる林道大津荷線。
軽自動車なら林道終点まで入ってOKだと思います。
大小の落石があるので、車の底は傷をつける覚悟でどうぞ。
私は国道からの分岐に車を置いて、この林道を歩きました。終点まで徒歩約40分。


途中に集落跡があります。
かつてあった津荷谷村の遺構とみられています。
(「村影弥太郎の集落紀行――津荷谷」http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/30.Wakayama/Hongu_Tsugadani.html


林道終点。写真中央奥に、ピンクのテープが巻かれた木が2本あり、その間からいよいよ山道となります。
なお、ピンクテープが巻かれた木は随所に登場しますが、これは複数の作業道で多用されているので、これを信じて歩いていってもたどりつくことは困難です。

2018.1探訪時

まずは沢沿いルートです。
(略地図を適宜参照してください)
すぐにこのような看板と沢に出会います。
実は昨夏に訪れた時は、この沢に丸太橋がかかっていました(下写真)

2017.8探訪時

いつからかかっていた橋かはわかりませんが、たった半年足らずで光景が変わってしまいました。
でも、橋がなくても沢を直接渡河できますのでご安心を。

沢の対岸は、平らでしっかりとした踏み跡が沢沿いに続きます。
しかし10分ほど歩いていると突然終わりが来ます。


写真が光で飛んでいてすみませんが、川の合流点のような場所で道が消失します。
(左から別の沢が合流する感じ)
唯一先に行けそうなのが、沢の左岸左奥側。
そこで再び渡河して左から合流する沢沿いに上流方面へ向かおうとしますが、大きな岩が沢を塞ぐようにどんと鎮座しており、無理をすれば行けないことないが、その先の保証がない状態で無謀に進みたくない、そんなギリギリの景色。

結果から言えば、ここをむりやり進めば黒尊佛のほうへ行けるのですが、その時の私はビビったというか、「こんな踏み跡とも思えない先に、黒尊佛への正しい道はつながっていないのでは?」と思って、周りをうろうろ観察。
すると、その左から合流してきた沢の左斜面の上の方に、なんだか作業道のようなものが見えるのです。
これがまた、本当に山道なのかどうかが、少し自信のない微妙な見え方。
急斜面のため、一度登ってもし違っていたら、今度は下るのがキツい傾斜でした。

他にアテがないため、逡巡した挙句、急斜面を登りました。
結果、正解。しっかり歩かれている山道に取りつくことができました。
一度見つけてしまえば、この山道で林道終点側に戻ることもできます。これが、斜面上を行くルートです。
この斜面上ルートの方が、林道終点から道は見つかりにくいですが、先述したような沢沿いルートの渡河も急斜面登りもしなくてすむので、今から斜面上のルートも教えます。


まず、林道終点のピンクテープ2本の間を入るのは同じ。
しかし、2本の間に入ったら、すぐに下写真の細い坂を上がってください。

ピンクテープ左側の幹の真後ろに見える細い坂が見えますか?これです。

これです!(写真真ん中)
この坂を上がると、略地図を見てほしいのですが、まるで段々畑のように平らな道に見える部分と、上に登る坂のような踏み跡が数段に渡って構成されています。
文章では説明しにくいので、略地図のように、何段か上に上がってください。他の道のようなものに惑わされてはいけません。


ブルーシートの残骸のようなものが見えてきたら、それを超えればゴールです。
(ただしこのブルーシートいつまで残っているか・・・)


ブルーシート横を通り過ぎて坂を登ったら、登りつめた所に山道が一本通っています。
登って左に行くと谷間があり、黒尊佛とは違う方向に行くので、右へつづら折りのように鋭角に曲がります。

この山道を進むと、途中で谷間に丸太橋を渡してある場所を通過します。


この橋はまだ歩ける状態ですが、いつまであるか。
これがなくなったら、谷間を下り上りですが、ちょっと危ないルートになってしまうかも。

橋を渡ってしばらく歩けば、私が沢沿いのルートから無理やり急斜面を上がった先の山道につながります。


では、話を戻してその先を案内します。

下のような看板が出てきます。

黒尊仏

こんな看板に出会うとうれしいですよね。
右下に降りる道があります。看板の矢印に従い、右下に降りてください。
沢まで降りれます。


沢沿いにまだ道が続いているので、ノーヒントだと、ついついこの沢沿いに上流に向かってしまうのですが・・・これが罠です。
この"自然な"沢沿いの踏み跡は黒尊佛への道ではなく、 どこか別の場所へ行ってしまいます(略地図参照)
なまじ作業道として使われていたようなので、私は2度目の探訪時、この上流の奥まで行ってしまいどん詰まり、万事休すになりました。
この自然な道を疑い、看板のところまで戻ってくるという決断を下すことが一番大変でした。

さて、正解のルートは、斜面を下った後に出会う上写真の沢を「渡河する」です。

・・・ここに看板が1つ欲しいです・・・。

上写真をご覧ください。写真の右奥にピンクテープが巻かれた木がありますね。
平らな植林地帯の様相を呈しており、よく見ると沢の際に石垣も見えます。
これが目印です。

植林が凄いので、伐採用の作業道ではないか?と半信半疑でしたが、もはや万事休すの私は、この道をダメもとで進んでみることにしました。

このルートが正解でした。


このような、伐採林の中を5分ほど歩きます。
本当にあるのか?と自分の中の疑心暗鬼と戦いつづけていると、

黒尊仏

看板が木の脇にもたれかかっています。

黒尊仏

まさに、見つけた時の気持ちは「南無・・・」
他のネットページの皆さん、この看板に出会うまでのルート、省略しすぎです。

「祭 毎年旧1月18日」の文字が。
新暦で言うと3月5日?私の誕生日です・・・。それはどうでもいいですが、縁ですね。

現在の様子を見るかぎり、もはやこの祭りは途絶えています。
千手観音に見立てられた信仰でもあるのだということを知ることができる、貴重な情報源としての看板です。

この看板を見つければ、もうゴールインしたも同じ。
看板横の踏み跡を3分も進めば黒尊佛と出会います。

黒尊仏

ファーストインプレッション。沢沿いに屹立する存在。

黒尊仏

正面はこちらでしょうか。
かつてまつられていた時の設備が残されています。

黒尊仏

クレーター状の窪みが蜂の巣状に広がっている、独特な外貌をしています。

黒尊仏

黒尊佛の頂部

黒尊仏

やや遠巻きから、黒尊佛の祭祀場の全景を映そうとしますが、まったく一枚に収められません。
いつものことですが、現地のスケール感が写真ではまったくつたわりません。

そこで、動画もUPしますので、参考としてください。



当日、小雨が降るなか、雨カッパ着用で撮影。

黒尊仏

それにしても、一種のおどろおどろしさ、生々しさのようなものを無機物であるはずの岩石から感じます。
特にこの窪み様と下部の黒光りする岩肌に、黒尊および疱瘡神としての神格を感じずにはいられません。

地質学的には、熊野地域に広がる熊野層群の中に局所的にマグマが噴出した火成岩の名残で、石英斑岩の岩質とのこと。
(田辺ジオパーク研究会「地質遺産の物語 田辺・みなべ編 №40 黒尊仏」http://tajiken.org/topics/topics.cgi?pg=10 紀伊民報の記事ありhttp://tajiken.org/topics/img/122-2.jpg

この記事によると、地元の古老格の方の貴重な証言として

  • 津荷谷村の村人がまつっていた。
  • 元々は社があった。
  • 旧暦1/18の祭では、のぼりをたてて太鼓を打ちながらしながら参詣し、赤飯と餅をお供えしていた。
  • 1953年7月の水害で社が流されて、この祭りは途絶えた。
  • 1990年に元村人が中心となり祭を復活させたが、約15年ほどで高齢化などの理由で再び途絶える。
  • 2011年9月までは鉄製の鳥居や石灯籠が健在だったが、同月の水害によりこれらも流され今に至る。

たしかに、現在残る祭祀設備は残骸の様相です。

黒尊仏

御神燈ですから、本来は上部があり、現在は下部のみ残存。
安政六未四月(1859年)の銘があります。貴重な文化財のはずです。

黒尊仏

願主名、所属、地区名も。

黒尊仏

ビール瓶。いつぞやの祭の遺物でしょうか。

黒尊仏

火を起こしていたのでしょうか。

黒尊仏

黒尊佛の下部は黒光りし、岩肌をえぐるように沢が流れます。
清浄な沢ですが、水害の爪痕を残すかのように、へし折れた草木が無秩序に散乱しています。
鳥居や灯籠の残骸もこの辺りに落ち込んでいるのでしょうか。

黒尊仏

一方、生き残った一部の祭祀施設。

黒尊仏

黒尊佛に隣接して、このような露岩群が斜面上方にかけて広がっています。

黒尊仏

上流側から映した黒尊佛の遠景。
「鉾島」の名前にふさわしいと思います。

黒尊仏

黒尊佛を沢を挟んだ向かい側には、このような(写真では伝わりにくいですが)一大岩盤がそそり立っています。
始め、こちらが黒尊佛かと勘違いしたほどの存在感です。

ネットページによっては、こちらの岩盤のほうが元来の祀り場であるという記述も見かけましたが、「津荷谷の地元の方の証言・記録に立脚しているか」で批判的に臨む必要があります。
検証可能な資料や出典元でない限り、その直観に私は乗れません。

その直観自体は現代の新たな信仰として肯定しますが、「古来の信仰・歴史が何であったか」をかき乱す危険性と覚悟も自覚して、それを言っているのかということです。

すべては、黒尊佛を現代につなぎわたした津荷谷の方々を最優先にして、この黒尊佛に接するべきです。

2017年9月1日金曜日

阪田山遺跡(和歌山県西牟婁郡白浜町)


和歌山県西牟婁郡白浜町阪田1−1 白浜美術館敷地内

■ 参考文献

巽三郎1956「紀伊西牟婁郡白浜町坂田山遺跡調査概報」『古代学研究』14 古代学研究会
※概報というが、この後に正式な報告書は刊行されていないので、本遺跡の実質上唯一の報告書はこれしかない。

阪田山遺跡

■遺跡の概要(報告書に基づく)


阪田山遺跡(阪田は、かつて坂田の字を使ったこともあるようだ)は、阪田山の斜面に自然露出の岩盤が広がり、その下方に岩盤を囲うかのごとく並ぶ弧状列石、そして焚火址2ヶ所、環状列石などの遺構が昭和30~31年にかけて見つかった祭祀遺跡である。

昭和30年当時は白浜の地で耳目を集めた場所のようであり、地元では遺跡の保存会が結成された。
当初、遺跡を顕彰する目的だったはずが、観光地の性なのか、現在では遺跡の上に歓喜神社という性神と絡めた"聖地"が新たに建てられている。

性神関係のB級スポットとしても、その筋では有名である。

阪田山遺跡

遺跡地の最上部にはこのような岩盤が露出している。
報告書(前掲の参考文献)によれば、当時の大阪学芸大学の鳥越憲三郎助教授はこの岩盤を、祭祀遺跡の中で「神の依り代」として機能していただろうと推測している。

阪田山遺跡

岩盤の中央部分に、このような窪みがある。
すぐ隣には隆起も見られ、セットで「陰陽神」様の彫刻として調査当時注目を浴びたようだ。
歓喜神社が建てられ、現在、性関係の観光地として知られているのも、これの存在に由来している。

報告書では、さすがに冷静な記述にとどめていることを、調査者の名誉のために紹介しておきたい。

「考古学的に現在のところでは当遺跡の様相と出土遺物との直接の関係は見出し難いし、またその彫刻というのも自然的に出来たものか、あるいは人工的なものか、議論の余地が充分ある」(報告書より)

阪田山遺跡

岩盤を覆うように歓喜神社の社殿が建てられているため、岩盤の全貌がやや掴みづらい。

阪田山遺跡

報告書で「B段」と呼ばれる、遺跡の平坦地の1つ。
鳥越憲三郎によれば、先の依代めがけて去来する神がとどまる「神の座」がこのB段であるとする。
平坦地の中央辺りから、時期不明の直径1m×厚さ15cmの黒色炭灰層が検出されており、焚火址と推測されている。

阪田山遺跡

B段には、「弧状列石」と表現された石の列がある。
とはいうものの、これらの石列は地山に接した状態で自然石が露出したものであり、発掘調査の結果では、後述する遺物包含層とは連ならない層位にあると報告されている。
列石と表現されるものの、自然物の可能性も否定できない。

阪田山遺跡

報告書で「A段」と呼ばれる平坦地。B段の下方に位置する。
平坦地ということで、鳥越憲三郎は「神の神籬」と推測しているが、この平坦地形は、隣接する町営グラウンドを築造した時、観覧スタンドとして削平したことによる平坦部分とわかっており、祭祀遺跡当時の地形ではないことに注意したい。

阪田山遺跡

上写真は、上方のB段から下方のA段に向かって撮影したところ。
A段からは、焚火址1ヶ所と環状列石遺構の発見と、地層上部に多数の礫岩が散布している。
焚火址からは古墳時代の須恵器・土師器・石製品・土錘が出土した。
この焚火址はB段の焚火址と同地層にあると推定されている。
上部の礫岩群は、遺物包含層とは異なる上の層に属すため、祭祀遺跡と直接は無関係とされている。

上写真の中央やや左にあるのが、環状列石である。

阪田山遺跡

環状列石の近景。直径1mほどの小規模な石囲いである。

この遺構は、およそTK-23からTK-43までの時期幅を持つ須恵器群の遺物包含層(先述の焚火址)のやや下部に位置し、大小の砂岩16個を直径約1mの環状に配置したものである。

環状列石の内部の土砂は、外部の漆黒褐色灰土とは明らかに区別でき、細礫が混ざった漆黒褐色土で充填されており、その内部土砂内から本遺跡出土滑石製模造品のほとんどが出土した。

さらに、その出土状態は、臼玉は配石内遺物包含層から万遍なく出土するのに対し、その他の有孔円板・剣形製品・勾玉・管玉などは包含層の上部に偏って出土するという、人為的配置性の濃いものだった。

以上の点から、この環状列石と祭祀遺物との関わりは非常に強いと言える。

特に、環状配石の内側からは臼玉約2000を含む滑石製模造品が見つかっており、外側からは翻ってほとんど見つからないという意図性がある。

この配石の内部は、祭祀具配置空間となっており、環状列石は聖域表示の機能を負った岩石祭祀遺構でであったという可能性が指摘できる。
ただ、焚火址との関連を考えれば、単なる埋納ではなく、遺物の廃棄跡としての施設だった可能性もあるだろう。

また、報告書によれば、環状列石を含めたA段は上部が削平に遭っており、列石遺構は下部のみが残存した状態での調査結果であると記されている。このため、遺構の上部構造や全貌は不明と言うほかない。

阪田山遺跡

上写真は、遺跡地最上部の岩盤から同標高を南へ進んだ場所にある露岩である。

報告書によれば、阪田山はこのような岩盤が山腹を縦走しており、断層によるものと推定されている。

■ まとめ


阪田山遺跡は、このような阪田山の大岩盤を、鳥越説で言うところの「神の依り代」「神の座」としてその麓に神籬を設けた祭祀遺跡だったのか。
批判説もあることに触れておかなければ公平ではない。

報告書の著者・巽三郎は、この大岩盤やB段の弧状列石は、層位的にA段の遺物包含層とつながらず、大岩盤から遺物包含層までのテラス状地形は、後世に造成されたことによるものであることを指摘している。
近くからは窯址や住居址の遺構も別に見つかっていることから、 土器の製造地における埴取りの神事としての祭祀遺跡ではなかったか、あるいは、地鎮祭的な祭祀の性格など、岩盤から離れた説も考えるべきとの意見を提示しており、傾聴に値するだろう。

ただし、個人的には「陰陽彫刻」を含む山腹の大岩盤は、山中を取り巻く断層であることから、祭祀当時から露出していたものと思われる。
陰陽の是非はともかく、岩盤が絶えず目に入る位置での祭祀であったことは、とりあえず認めていいのではないかと思う。
遺跡と岩盤の間に挿入された「弧状列石」や「平坦地」は後世の造作と考えても問題ない。

個人的な提言だが、歓喜神社を擁する白浜美術館の売店か展示室には、今回参考とした報告書の抜き刷りかコピーは常時置いておいた方がいいと思う。
事実と新たな歴史が、ないまぜになっていて、遺跡の元来の価値が、よく分からなくなってきている。
また、阪田山遺跡が見つかった時の地元の記事や保存運動の顛末も、白浜で起こった貴重な歴史的出来事であるから、話者のいるうちに記録収集をして、永久に残るように願いたい。

2017年8月20日日曜日

生石神社(和歌山県有田郡有田川町)


和歌山県有田郡有田川町楠本1265-1

生石神社(和歌山県)

生石ヶ峰(おいしがみね。標高870m)の頂上近くに生石神社(しょうせきじんじゃ)が鎮座する。

生石神社(和歌山県)

石が生まれ、神となった、紛うことなき石神。

文献上、どこまで遡れる地なのかは情報収集不足である。
兵庫県高砂市の生石神社(おうしこじんじゃ)の影響が気になる。

生石神社(和歌山県)
この立岩は夫婦岩とも呼ばれるようで、岩塔も2つのピークに分かれている。

生石神社(和歌山県)
西側のピーク。
背後は禁足地で、神職以外は立入禁止とのことで、注意したい。