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2018年5月16日水曜日

吉備の中山/吉備中山(岡山県岡山市)



■ 参考文献

薬師寺慎一 『「吉備の中山」と古代吉備』 吉備人出版 2001年
八木敏乗 「吉備中山」 『岡山の祭祀遺跡』(岡山文庫145) 日本文教出版 1990年


■ 吉備津彦神社境内


環状列石


備前国一宮吉備津彦神社の境内に神池があり、その中に鶴島・亀島・五色島の3つの小島が配され庭園となっている。
このうち最も東に浮かぶ五色島に環状列石と呼ばれる構造物がある。

20個の岩石が綺麗に環状に並べられている。
3つの島を配するという様式は三島式庭園と呼ばれ、平安時代まで遡りうるものといわれている。

吉備中山
環状列石

八島殿


吉備津彦神社所蔵の『古代御社図』には、徳寿寺の谷川を挟んだ対岸に文明3年(1471年)「八島殿」という建物があったことが記されている。
薬師寺慎一氏の『「吉備の中山」と古代吉備』(2001年)によると、『備前州一宮密記』という文献に八島殿には神座と呼ばれる石があり、吉備津彦神社へお供えをする場合はまずこの石に供え物を置いて、霊烏がついばんでから吉備津彦神社に供えないといけなかったという。
薬師寺氏の調査により、八島殿があったとされる場所に長さ約3m、巾約1m、高さ約1mの安山岩が存在しており、これが八島殿の神座だったのではないかと推測されている。

忠魂碑台石


境内南に忠魂碑があるが、その台石はかつて背後の一段高い場所から移設してきたものだという。
先出の薬師寺氏によると、そこは『古代御社図』に描かれたかつての本殿の位置であることから、この台石は古代のイワクラだったと述べている。
根拠は、古代の社殿はイワクラの近くに作られることが多かったからというやや漠然としたもののため、参考として記しておくにとどめたい。


■ 吉備津神社境内

矢置岩/矢置石/箭置石


備中国一宮である吉備津神社の北参道口にある。
矢置岩・矢置石・箭置石と表記することもある。

温羅(うら)と呼ばれる鬼を討伐するために大和から派遣されてきた大吉備津彦命が、この岩の上に矢を置いて弓を引き温羅を退治したと伝わる。

ならびに、矢置岩は「箭祭(やまつり)」という神事にも登場する。
箭祭の祭祀順序は以下の通り。

・前日に祭場の掃除をしておく。
・2本の矢を箭置石の上に置く。
・神主がその矢を持って本殿に参る。
・本殿の東北隅にある艮御崎神社に矢を供え祝詞を上げる。
・再び矢を持って本殿に参る。
・桜箭神社に行き、穴を掘ってその中に矢を埋納する。

奉献物である矢を最初に置く供物台石として機能している。

吉備中山
矢置岩

矢納宮石


江戸時代に描かれたとされる境内絵図で、矢置岩の背後の山腹に「矢納宮石」と記され、2個の石が描画されている。
薬師寺氏によれば、これは桜谷神社・桜箭神社といわれる社と同じものを指すという。

桜箭神社は前述の通り、箭祭において奉献物である矢を最終的に埋納した場所であり、矢納宮石も矢置岩と同じく箭祭に用いられた岩石祭祀事例の可能性がある。
ただ、神事の中では「穴を掘って矢を納める」という記述しかなく、矢納宮石がどのように機能していたのかは不明である。

岩山宮


中山主命・建日方別命の二柱を祭神とする境内摂社。長い石段の上、山腹と言って良い場所に鎮座する。
社名が指すように、岩を神体とする神社という。社殿の中に岩がまつられているらしいが、外から岩の様子を確認することはできない。

吉備中山
岩山宮

金比羅の露岩


江戸時代の境内絵図で、山腹に「金比羅」という字と共に祠の絵があり、さらに祠の背後を屏風のごとく覆う岩が描かれている。

金比羅の祠は現存しておらず、他の場所に合祀もされておらず完全に信仰が途絶えた様子だ。
薬師寺氏の調査の結果、絵図の示す山腹の辺りには大きな露岩があり、その前面に二段積みの石垣と平坦地が確認されている。

薬師寺氏がある古老に聞き取った所によると「金比羅さまは吉備津宮の元宮と聞いています」という。

■ 吉備の中山 山中


穴観音


大吉備津彦命墓として宮内庁管理されている、山中の中山茶臼山古墳(前方後円墳)。
この後円部東に5体ほどの岩石が群集しており、岩石の表面を窪ませて仏を彫刻していることから穴観音の名称がある。

主石の左側面の穴に耳を当てると観音様の声が聞こえるという。

一宮地域活性化推進委員会の現地解説板および薬師寺氏によると、これらの岩石群は中山茶臼山古墳築造以前からこの場所にあり、石仏以前のイワクラだったと推測されている。

しかし、前方後円墳の築造には大がかりな墳形整備が必要であり、中山茶臼山古墳測量図の等高線の流れから見ても、穴観音の岩石群の辺りは原地形を保っていない。
岩石自体も地中に根ざす岩盤ではなく、地表に置かれた岩塊ということから、古墳築造後の所産の可能性もある。

吉備中山
穴観音。背後のマウンドは中山茶臼山古墳の後円部。

鏡岩


山頂からやや西に下った山頂直下と言える立地に、身長を越えるレベルの巨岩が複数林立している一帯がある。
その内の1体を鏡岩と呼び、斜面下側の岩肌は縦にスパッと割れたかのように平らであり、楕円形の鏡の形状を見せる。
ただ表面には石のしわが大量に走っており、鏡のような光沢面はない。

吉備の中山のイワクラを渉猟している薬師寺氏の『「吉備の中山」と古代吉備』(2001年)に未登場であることから、近年の命名の可能性もある。

吉備中山
鏡岩

八畳岩/奥宮磐座


標高162mピークのほぼ山頂に立地。奥宮磐座と総称される大小の露岩の群れが広がっており、その中でひときわ大きいものを八畳岩と呼ぶ。

特筆すべきは、この八畳岩の斜面下側の根元から土師器片が採集されていること。岩の根元には岩陰状の窪みもある。
ただ、土師器の製作年代については言及されていない。

吉備中山
八畳岩

環状石籬


環状石籬(かんじょうせきり)という用語は、今で言う環状列石=ストーンサークルと同義であり、かつて鳥居龍蔵博士が巨石文化関係の研究をしていた時に盛んに用いられていた。
前述の奥宮磐座と類似した大小の露岩の散在具合であり、自然の露岩群と思われる。意図的に環状に岩石を並べたという根拠はない。薬師寺氏の著書にも未登場。

吉備中山
環状石籬

お休み岩


人が休むのか神が休むのか、沿革不明。薬師寺氏著書未登場。

吉備中山
お休み岩

元宮磐座


標高175mピーク(龍王山)の山頂直下に位置。
斜面下から上までの高さ3mを測り、元宮磐座という名前からも、ただ事ではない重要性を感じるが、薬師寺氏の著書にはすぐ近くの経塚や八大龍王の記述はあるのにここは未登場。

薬師寺氏の調査と兼ね合わせて考えると、近年名付けられた「イワクラ」と、古来からまつられてきた「磐座」がない交ぜになっている印象を受ける。
「近年名付けられたイワクラ」も、名付けた側からすれば太古の磐座の掘り起こし・再発見という意味合いかもしれないし、現在は祭祀されている岩石だということは間違いない(毎年、5月の第2日曜に備前吉備津彦神社の主催で「磐座祭り」が執り行われておりその巡拝コースに入っている)。いずれにしても岩石祭祀の実例ではある。

だが、歴史資料として取り扱うなら、新古の区別は必要な作業である。
この種の歴史学的研究にはまだ出会っていない。

吉備中山

吉備中山
元宮磐座

経塚


山頂に立地。経筒を地中に埋納した後、地表を小ぶりの石礫で覆った後、中心に若干大きめの石礫を寄せ固めている。内部から出土した銅製経筒は鎌倉時代製作と推定されている。
すぐ北に隣接して八大龍王の石祠がまつられている。石祠は天明の大飢饉で象徴的な天明年間(1781~1789年)の寄進である。

吉備中山
経塚

盗人岩/天柱岩


山腹の急斜面上に屹立する立岩。
岩の上部に「天柱」という文字が刻まれており、このことから天柱岩の名前がある。
この文字は、山麓に本部を持つ宗教法人福田海が刻んだもので、文字が刻まれる前は盗人岩と呼んでいたらしい。ならば岩の本来の名称は盗人岩として記録すべきだろう。
盗人岩という名には何らかの説話が隠されているはずだが不詳である。
岩の根元からは鎌倉時代と推定される土師器片が採集されているという。

吉備中山
盗人岩

夫婦岩


元宮磐座からお休み岩へ至る山道の途中に、「夫婦岩」への標識と分岐がある。
吉備の中山の東側斜面を谷間沿いに下っていく道になっており、分岐から10~15分ほど歩くと「夫婦岩遺跡」と書かれた標識と共に2体の巨岩が出現する。

なぜここだけ「遺跡」の表示になっているのは謎。何か遺物が見つかったのだろうか。その意味なら八畳岩や盗人岩にも「遺跡」と銘打って良いはずだが、基準は不明瞭である。

写真左側の立岩手前は崩落したのか赤土むき出しの窪みが開けており、近年補強したのか、数段のテラスに形成した石垣が築かれている。
2体とも立岩状であり、どちらが男でどちらが女かはわからない。薬師寺著書には未登場。

吉備中山
夫婦岩

不動岩


前述の福田海の敷地内にまつられている自然の巨岩。
福田海は明治時代に結成された新宗教ですが、福田海ができる前ここは有木神社という神社があり、背後の峰を有木山と呼んでいた。

有木神社は明治時代に備中吉備津彦神社に合祀され、現在は跡地に小祠が残るのみだが、薬師寺氏によれば、有木神社は平安時代に都人の間で屏風絵の舞台や和歌の題材として用いられるような著名な場所だったと指摘されている。
不動岩も自然岩である以上、有木神社が盛行していた時期、あるいは神社祭祀以前から、吉備の中山の山麓祭祀の一端を担っていた可能性がある。

内宮石


『梁塵秘抄』(平安末期)に吉備津の「内の宮」と記される。
江戸時代の吉備津神社境内絵図には11個の石が環状に描画されており、傍らに「内宮石」と記されている。

この内宮は、明治時代に吉備津神社境内摂社の本宮に合祀されたため、旧社地は人跡が絶えている。
1989年に薬師寺氏ほか数名が踏査したところ、旧社地であることを示す石碑や石段跡が見つかった。11個の内宮石は完存していないようで、その名残と思われる一部の岩石を発見するにとどまった。

平安末期の「内の宮」が江戸時代絵図の内宮石と同じものを指すかには若干の検討の余地もあるが、吉備の中山に散見される「環状列石」という祭祀形態が、戦前戦後の巨石文化研究の安易な影響によるものではなく、少なくとも江戸時代から実在したことは特筆していい。

影向石


吉備の中山の西麓にかつて新宮と呼ばれる社があり、明治時代に内宮と共に本宮に合祀された。
旧社地には「影向石」と刻字のある石碑が立てられ、以前そこが神のいた場所だったことを今に伝えている。
石碑としての岩石祭祀事例である。

「S山」山頂遺跡


「S山」とは薬師寺氏命名による仮称で、内宮石のほぼ真南に位置する峰に名前がないため、吉備の中山の南(=South)の峰という意味で付けられた。
ここには「イワクラ」と思しき岩石があったというが、鉄塔が建設された時に破壊され、その際に弥生時代の分銅形土製品・石剣・弥生土器片などが見つかったらしい。
どのような調査報告に基づくものなのかは薬師寺氏の著書に書かれていないので不明。

2017年4月5日水曜日

たいち墓/太一墓/加三方磐座遺跡(岡山県)


所在地:岡山県和気郡和気町加三方

金子山中腹の尾根端に立地。
昭和51年に「加三方磐座遺跡」の名称で町指定史跡となっている。

たいち墓
遺跡中心部



遺跡の構造は複雑である。

台座石の上に立石を置いた組石があり、これは人工物と考えられる。
一見すると石碑のようだが、立石に文字などは刻まれていない。
石を立てること自体に意味があったのだと思われるが、その目的・機能ははっきりしない。

たいち墓
組石。三段積みになっており隙間には割石を敷き詰めている。


この組石の北に、8個の細長い岩石が一列に並んでいる。
外見的な印象では、横穴式石室の天井石が露出したようにも見える。

たいち墓
8個の列石。頂面の高さも揃っている。


そして組石の東には1個の丸石があり、その周囲を細長い岩石が3個以上取り囲んでいる。
ここだけ見ると、視覚的には環状列石のような感を呈している。

たいち墓
組石の東に広がる環状列石状構造。 環状に並べられた椅子のようでもある。


さらに組石の南には横穴式石室が1基開口しており、磐座山古墳という名前が付けられている。
径15mの円墳で石室長は8.1m、無袖式という古墳規模から考えて、古墳時代後期の山地帯群集墳の典型例と言える。
金子山には他の尾根筋・谷筋でも複数の古墳が確認されている。

たいち墓
磐座山古墳の石室内部。 古墳は盗掘を受けており出土遺物は確認されていない。


これらの点から考えて、磐座遺跡自体も数基の古墳が1つの尾根に密集したものであり、石室の天井石が露出した姿の可能性がある。
それが後世になって雨乞い祭祀の場になり、石材を再利用して立石の組石を築いたのではないだろうか。

ただ、遺跡北東端に露出する2個の巨石は天井石のように接し合っておらず、自然の岩盤のようにも見える。いずれにせよ開口している1基以外の露岩の地中は調査されていないためこれ以上の判断は保留せざるをえない。

土器片と石包丁が発見されているという情報があるが、詳細な報告書が見当たらず、その点数や発見位置、遺跡及び古墳との関連性は全くの不明である。

ここまでは考古学的な話に終始したが、一方で民俗学的な情報をまとめておきたい。

地元では「たいち墓(太一墓)」と呼ばれ、雨乞いや花見の場所だったといわれている。
磐座という呼び名では語りつがれていなかったことに注意したい。

現地を訪れた際、「たいち墓」までの道を定期的に清掃されている地元の方にお会いすることができた。
その方いわく、かつてはマツタケがよく採れたといい、収穫期には見張りのため地元の人がここで夜通し酒食しながら番をしたという。
しかし、やがてアカマツは枯死し、マツタケは採れなくなったことから、見張りの習慣も今は途絶えているらしい。

また、加三方という地名は、部・三宅・大方という3つの集落名をくっつけた字であり、中心集落は三宅であるが、加三方地区合同の祭事を行なう時に神輿を担げるのは大方だけだそうだ。

「たいち墓(太一墓)」や「雨乞い」というキーワードからは、中国思想(陰陽道・天帝信仰)や天体信仰(北極星・天照信仰)のほか、ここがやはり墓所という認識だったことが読み取れる。
また、花見や酒食の番という風習からは葬送供養時の直会の要素を垣間見ることができる。

以上を綜合すると、立石の組石については墓標の働きがあった可能性と、雨乞いの時の祭祀対象として置かれた可能性があるだろう。

なお、遺跡西北の林道脇に細長い岩石がある。
先述の地元の方の話によると、これを「休み石」と呼び、番をする人が道の途中で腰かけて休むものだったという。
特に祭祀要素はないようだが、他例だと群馬県賀茂神社神籠石の「休め石」などは、祭事に神輿を休めるための岩石として用いられており、全国の類例から考えると当地の「休み石」も元来は祭祀に用いられていた可能性があることを付記しておきたい。

たいち墓
ブッシュで分かりにくいが写真中央が休み石。林道の側溝脇にある。


参考文献

八木敏乗 「加三方」 『岡山の祭祀遺跡』(岡山文庫145) 日本文教出版 1990年

「たいち墓」「磐座山古墳」(奈良文化財研究所「遺跡データベース」検索結果より) →2010年5月30日アクセス。
*上記サイトのたいち墓の座標位置は誤っており、たいち墓と磐座山古墳は隣接しているため磐座山古墳の座標位置が正しい。