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2018年6月14日木曜日

磐座神社・龍王山・権現山・高巖山(兵庫県相生市)


兵庫県相生市矢野町森字神田

磐座神社

磐座神社という名前は、磐座に降りた神を、後世に神社としてまつったものである。

元々は神が座した岩が、神が見えないからこそだろうか、岩自体が神と同格になり、その岩をまつる神社に転化した。

磐座神社

拝所のこの奉納額の多さと遺存状態が、磐座神社の篤い信仰を今に伝えている。

磐座神社

「社殿背後の権現山を神体山として拝し高座石 座光石 天狗岳を磐座の神と仰ぐ」
降座石の別名もあるという。

磐座神社

「後山ガ万葉集ニヨル矢野神山デ三角錐ノ奇峰」
「天正十一年十一月社殿ヲ現地に創建 岩蔵地蔵権現ト称シタ」

磐座神社

「座光石 此の処に並び立つ座光石は即ち磐座の大神なり 往昔山上より天降り給ふ 磐座神社の名は是に由来す」

磐座神社

磐座神社の境内から後ろの山、いわゆる龍王山、権現山(天狗岳)、高巖山に登るには、この出入口を見つけて登ること。
ルートファインディングのため、国土地理院地形図を持参することが望ましい。

磐座神社

登り口から約20分で、鳥居と巨岩のまつり場に出会う。

磐座神社

ここは磐座神社の裏山に当たる龍王山の尾根上先端。
由緒板に記されていた「龍王社(奥の院) 少童(わたつみ)神 阿弥陀佛」の地である。

磐座神社

元文4年(1739年)の銘をもつ。鳥居の前は切り立つ斜面で道が見当たらないが、信仰の歴史を感じさせる。

磐座神社

巨岩の懐に、少童神をまつる龍王社がある。
周囲の岩々も、聖域を構成する磐境のような感がある。

磐座神社

この巨岩の逆側に回ると、もう一基堂宇が控えている。
これは阿弥陀佛をまつる奥の院である。
つまり、この巨岩は表裏で神と仏をまつりあう神仏習合の地である。

「相生市の伝説(06)-磐座(いわくら)神社の巨岩伝説」http://www2.aioi-city-lib.com/bunkazai/den_min/den_min/densetu/06.htmによれば、享保年間に2つの集落がこの岩と山の所有権を争った時、この巨岩に亀裂が入ったという。
複数の集落の聖地であったことが窺われるエピソードである。

磐座神社

龍王山から北に尾根続きで権現山(天狗岳)がそびえる。
山頂直下に大岩壁が広がり、これを天狗岩という。

麓から仰ぐと三角の稜線を描き、神体山や磐座の神と位置付けられていることから、この天狗岩も磐座であることは疑いない。

磐座神社の座光石は山の上から落ちてきた石と言い伝えられているが、それが龍王山の奥の院の巨岩のことか、 この天狗岩のことからは明示されていない。
また、磐座神社からは直接見えないが、権現山のさらに北方には高巖山という山がそびえ、山名のとおりここも巨石累々らしい。ここも含めて磐座神社の聖地とみなされているかはわからない。

神社説明板に書かれていた「高座石」が、今まで触れたどの石に該当するのか、あるいは別の石を指すのかが特定できなかった。
奥の院の巨岩に、特定の名前が付いていない様子でもある。

いずれにしても、山中に遍く存在する山の神が局所的に出現する象徴的な地として石があり、その石が存在する天狗岩、龍王山奥の院、座光石などに、時期ごと、祭祀集団ごとに祭祀の場所を変えながら降臨したのだろう。

伝説上では祭祀の場は山頂から山麓へ移ったかのようだが、禁足地の概念なども踏まえて、史実はどうだったかは即断できない。安易に奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の概念を当てはめるのは危険である。
ただ、当地の場合は麓からでも権現山の天狗岩が遠望でき、その威容は容易に伝わるため、祭祀の場とは別に、元来の信仰の源のひとつだったとは言えるだろう。
信仰対象は山中にあることを認知しながら、祭祀の場は基本的に山麓だったという可能性もあるし、山の民の発想で言えば、山中に踏み入れて山中の巨岩で祭祀の場を設けたのも自然である。
現時点で、神道学・文献学・民俗学それぞれで山岳信仰の捉え方については諸説が入り混じっている状況であり、場所によりケースバイケースの可能性もある。

2018年6月11日月曜日

気比遺跡/気比銅鐸出土地(兵庫県豊岡市)


兵庫県豊岡市気比溝口

立地としては、山の尾根先端が河川とぶつかったところに、高さ約4mの岩盤が露頭している。
ここから銅鐸4個が出土したことで知られる。

気比遺跡銅鐸出土地

発見された銅鐸は完形で保存状態も良く、現在東京国立博物館に所蔵されている。

気比遺跡銅鐸出土地

この一帯は岩盤が露出しており、採石作業中に銅鐸が見つかった。

気比遺跡銅鐸出土地

岩盤には3体の仏像と「南無阿弥陀仏」の字が刻されていた。

このちょうど裏側が岩の集積となっていたようで、そこに生まれた岩穴のような空間に銅鐸があったという。
岩穴空間の床面には川原石と貝殻が敷かれ、その上に銅鐸4個が横に寝かされた状態で収められていたという。
発見当時は、岩穴の入口に相当する部分に閉塞石のように石の詰め物がなされていたといい、極めて人為的な空間が形成されていた。

気比遺跡銅鐸出土地

石仏が刻まれていた面のちょうど裏側。
原形はとどめていないかもしれないが、おそらくこちら側にかつて岩穴の空間があったのだろう。

気比遺跡銅鐸出土地

尾根と岩盤の間に道が切り開かれている。中世の頃からあった古い道ともいう。
元は同一の岩盤だったと思われるが、道によって結果的に銅鐸埋納地は単立の巨岩のような外見となった。

気比遺跡銅鐸出土地

井上洋一氏は「但馬・気比銅鐸をめぐる2・3の問題」(『考古学雑誌』68-1、1982年)の中で、この銅鐸の実物を観察した結果、弥生時代の埋納状態そのままではなく、別の場所からこの岩穴に後世移された「再埋納の跡」ではないかと論じた。
以後、当地を弥生時代の遺跡と見るのは批判的である。

また、いわゆる巨岩信仰と銅鐸埋納をセットにする旧来の研究の反証事例としても挙げられることがある。

とはいえ、1例2例の再埋納の例を取り上げて、すべての「石と青銅器の伴出事例」を否定するのも横暴である。
巨石下に青銅器を埋納する事例が、瀬戸内地域の扁平鈕式の型式の時期に分布していることを指摘する研究(石橋茂登氏「銅鐸・武器形青銅器の埋納状態に関する一考察」『千葉大学人文社会科学研究』22、2011年)や、朝鮮半島からも巨石下の青銅器埋納事例が見つかっていることから、アジアに広げた祭祀研究の中で考えるべきというのが昨今の趨勢である。

また、当地が銅鐸だけの視点で語られることで看過されるのが、石仏・刻字という文化財と、再埋納した人々の心性と歴史である。

岩穴に川原石と貝殻を敷き、その上に銅鐸を並べて、閉塞石を詰めたという祭祀が行われていた事実を、はたして誰が、どの立場で研究のまなざしを当てているのか?

石仏の担い手と銅鐸再埋納の担い手が同じであるという保証はないが、石橋茂登氏「銅鐸と寺院―出土後の扱いに関して―」(『千葉大学人文社会科学研究』21、2010年)でも述べられているように、中近世において弥生時代の銅鐸が発見された時、そのいくつかは梵鐘と同じような位置付けの聖なる法具として扱われた記録が残っている。
当地の銅鐸埋納が、このような歴史的背景のもとでなされた祭祀遺構と考えると、その具体的な祭祀方法を今に伝える貴重な資料とも言える。

その中で、岩石に仏を彫る行為や岩石に法具を納める行為を、岩石信仰という観点から批判的に捉えることも一つの重要なアプローチだろう。

2018年5月27日日曜日

妙石坊の高座石(山梨県南巨摩郡身延町)


山梨県南巨摩郡身延町

妙石坊高座石

七面山に坐す七面大明神が、女人に扮してこの場所で日蓮と出会った。

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日蓮はここで初めて説法を行い、それを聞いた七面大明神は法華経を守護する神となることを彼に約束した。

妙石坊高座石

その時、日蓮はこの石の上で説法をおこなったことから、高座石の名がある。

妙石坊高座石

境内にはその時の様子を描いた絵も掲示されている。

2018年5月24日木曜日

巖石神社(兵庫県宍粟市)


兵庫県宍粟市山崎町下町

巖石神社

山の端に立地。

巖石神社

巖石神社は「がんせき」と読むことが現地看板に書いてあるが、兵庫県神社庁のリストでは「いついし」と読み、「いわいし」と読む人もおり一定しない。

巨岩信仰数多あると言えど、巖石すなわち岩石神社というネーミングは全国的にも珍しいと思う。

いずれにしても社殿背後に屹立する岩壁のような一大岩塊をまつる場所であることは疑いない。

巖石神社

地元では「権現さん」と呼ぶことが多いらしい。
現地看板には修験道の影響によるもので平安時代からと書いてあったが、これはあくまでも一般的な学説を転記したものと思われ、「権現さん」と「巖石神社」の名称の先後関係は不明としておくほうが良い。

巖石神社

社の傍らに直立する「夫婦(みょうと)ヒノキ」は樹齢250年を超すといわれる。
これは巖石のほうが早い。

巖石神社

戦後新設されたと思われる「史跡 磐座」の石碑も立てられ、磐座の一般的な説明につづき、起源は2200年前であると刻字されていたが、何の根拠も書かれていない。

そもそも語りつがれてきた名前は「権現さん」であり「巖石」ではないのか。
半可通の磐座研究に基づいて建てられたものでも、現地にあれば権威性が自ずと帯びる。
罪深いことである。

2018年5月16日水曜日

吉備の中山/吉備中山(岡山県岡山市)



■ 参考文献

薬師寺慎一 『「吉備の中山」と古代吉備』 吉備人出版 2001年
八木敏乗 「吉備中山」 『岡山の祭祀遺跡』(岡山文庫145) 日本文教出版 1990年


■ 吉備津彦神社境内


環状列石


備前国一宮吉備津彦神社の境内に神池があり、その中に鶴島・亀島・五色島の3つの小島が配され庭園となっている。
このうち最も東に浮かぶ五色島に環状列石と呼ばれる構造物がある。

20個の岩石が綺麗に環状に並べられている。
3つの島を配するという様式は三島式庭園と呼ばれ、平安時代まで遡りうるものといわれている。

吉備中山
環状列石

八島殿


吉備津彦神社所蔵の『古代御社図』には、徳寿寺の谷川を挟んだ対岸に文明3年(1471年)「八島殿」という建物があったことが記されている。
薬師寺慎一氏の『「吉備の中山」と古代吉備』(2001年)によると、『備前州一宮密記』という文献に八島殿には神座と呼ばれる石があり、吉備津彦神社へお供えをする場合はまずこの石に供え物を置いて、霊烏がついばんでから吉備津彦神社に供えないといけなかったという。
薬師寺氏の調査により、八島殿があったとされる場所に長さ約3m、巾約1m、高さ約1mの安山岩が存在しており、これが八島殿の神座だったのではないかと推測されている。

忠魂碑台石


境内南に忠魂碑があるが、その台石はかつて背後の一段高い場所から移設してきたものだという。
先出の薬師寺氏によると、そこは『古代御社図』に描かれたかつての本殿の位置であることから、この台石は古代のイワクラだったと述べている。
根拠は、古代の社殿はイワクラの近くに作られることが多かったからというやや漠然としたもののため、参考として記しておくにとどめたい。


■ 吉備津神社境内

矢置岩/矢置石/箭置石


備中国一宮である吉備津神社の北参道口にある。
矢置岩・矢置石・箭置石と表記することもある。

温羅(うら)と呼ばれる鬼を討伐するために大和から派遣されてきた大吉備津彦命が、この岩の上に矢を置いて弓を引き温羅を退治したと伝わる。

ならびに、矢置岩は「箭祭(やまつり)」という神事にも登場する。
箭祭の祭祀順序は以下の通り。

・前日に祭場の掃除をしておく。
・2本の矢を箭置石の上に置く。
・神主がその矢を持って本殿に参る。
・本殿の東北隅にある艮御崎神社に矢を供え祝詞を上げる。
・再び矢を持って本殿に参る。
・桜箭神社に行き、穴を掘ってその中に矢を埋納する。

奉献物である矢を最初に置く供物台石として機能している。

吉備中山
矢置岩

矢納宮石


江戸時代に描かれたとされる境内絵図で、矢置岩の背後の山腹に「矢納宮石」と記され、2個の石が描画されている。
薬師寺氏によれば、これは桜谷神社・桜箭神社といわれる社と同じものを指すという。

桜箭神社は前述の通り、箭祭において奉献物である矢を最終的に埋納した場所であり、矢納宮石も矢置岩と同じく箭祭に用いられた岩石祭祀事例の可能性がある。
ただ、神事の中では「穴を掘って矢を納める」という記述しかなく、矢納宮石がどのように機能していたのかは不明である。

岩山宮


中山主命・建日方別命の二柱を祭神とする境内摂社。長い石段の上、山腹と言って良い場所に鎮座する。
社名が指すように、岩を神体とする神社という。社殿の中に岩がまつられているらしいが、外から岩の様子を確認することはできない。

吉備中山
岩山宮

金比羅の露岩


江戸時代の境内絵図で、山腹に「金比羅」という字と共に祠の絵があり、さらに祠の背後を屏風のごとく覆う岩が描かれている。

金比羅の祠は現存しておらず、他の場所に合祀もされておらず完全に信仰が途絶えた様子だ。
薬師寺氏の調査の結果、絵図の示す山腹の辺りには大きな露岩があり、その前面に二段積みの石垣と平坦地が確認されている。

薬師寺氏がある古老に聞き取った所によると「金比羅さまは吉備津宮の元宮と聞いています」という。

■ 吉備の中山 山中


穴観音


大吉備津彦命墓として宮内庁管理されている、山中の中山茶臼山古墳(前方後円墳)。
この後円部東に5体ほどの岩石が群集しており、岩石の表面を窪ませて仏を彫刻していることから穴観音の名称がある。

主石の左側面の穴に耳を当てると観音様の声が聞こえるという。

一宮地域活性化推進委員会の現地解説板および薬師寺氏によると、これらの岩石群は中山茶臼山古墳築造以前からこの場所にあり、石仏以前のイワクラだったと推測されている。

しかし、前方後円墳の築造には大がかりな墳形整備が必要であり、中山茶臼山古墳測量図の等高線の流れから見ても、穴観音の岩石群の辺りは原地形を保っていない。
岩石自体も地中に根ざす岩盤ではなく、地表に置かれた岩塊ということから、古墳築造後の所産の可能性もある。

吉備中山
穴観音。背後のマウンドは中山茶臼山古墳の後円部。

鏡岩


山頂からやや西に下った山頂直下と言える立地に、身長を越えるレベルの巨岩が複数林立している一帯がある。
その内の1体を鏡岩と呼び、斜面下側の岩肌は縦にスパッと割れたかのように平らであり、楕円形の鏡の形状を見せる。
ただ表面には石のしわが大量に走っており、鏡のような光沢面はない。

吉備の中山のイワクラを渉猟している薬師寺氏の『「吉備の中山」と古代吉備』(2001年)に未登場であることから、近年の命名の可能性もある。

吉備中山
鏡岩

八畳岩/奥宮磐座


標高162mピークのほぼ山頂に立地。奥宮磐座と総称される大小の露岩の群れが広がっており、その中でひときわ大きいものを八畳岩と呼ぶ。

特筆すべきは、この八畳岩の斜面下側の根元から土師器片が採集されていること。岩の根元には岩陰状の窪みもある。
ただ、土師器の製作年代については言及されていない。

吉備中山
八畳岩

環状石籬


環状石籬(かんじょうせきり)という用語は、今で言う環状列石=ストーンサークルと同義であり、かつて鳥居龍蔵博士が巨石文化関係の研究をしていた時に盛んに用いられていた。
前述の奥宮磐座と類似した大小の露岩の散在具合であり、自然の露岩群と思われる。意図的に環状に岩石を並べたという根拠はない。薬師寺氏の著書にも未登場。

吉備中山
環状石籬

お休み岩


人が休むのか神が休むのか、沿革不明。薬師寺氏著書未登場。

吉備中山
お休み岩

元宮磐座


標高175mピーク(龍王山)の山頂直下に位置。
斜面下から上までの高さ3mを測り、元宮磐座という名前からも、ただ事ではない重要性を感じるが、薬師寺氏の著書にはすぐ近くの経塚や八大龍王の記述はあるのにここは未登場。

薬師寺氏の調査と兼ね合わせて考えると、近年名付けられた「イワクラ」と、古来からまつられてきた「磐座」がない交ぜになっている印象を受ける。
「近年名付けられたイワクラ」も、名付けた側からすれば太古の磐座の掘り起こし・再発見という意味合いかもしれないし、現在は祭祀されている岩石だということは間違いない(毎年、5月の第2日曜に備前吉備津彦神社の主催で「磐座祭り」が執り行われておりその巡拝コースに入っている)。いずれにしても岩石祭祀の実例ではある。

だが、歴史資料として取り扱うなら、新古の区別は必要な作業である。
この種の歴史学的研究にはまだ出会っていない。

吉備中山

吉備中山
元宮磐座

経塚


山頂に立地。経筒を地中に埋納した後、地表を小ぶりの石礫で覆った後、中心に若干大きめの石礫を寄せ固めている。内部から出土した銅製経筒は鎌倉時代製作と推定されている。
すぐ北に隣接して八大龍王の石祠がまつられている。石祠は天明の大飢饉で象徴的な天明年間(1781~1789年)の寄進である。

吉備中山
経塚

盗人岩/天柱岩


山腹の急斜面上に屹立する立岩。
岩の上部に「天柱」という文字が刻まれており、このことから天柱岩の名前がある。
この文字は、山麓に本部を持つ宗教法人福田海が刻んだもので、文字が刻まれる前は盗人岩と呼んでいたらしい。ならば岩の本来の名称は盗人岩として記録すべきだろう。
盗人岩という名には何らかの説話が隠されているはずだが不詳である。
岩の根元からは鎌倉時代と推定される土師器片が採集されているという。

吉備中山
盗人岩

夫婦岩


元宮磐座からお休み岩へ至る山道の途中に、「夫婦岩」への標識と分岐がある。
吉備の中山の東側斜面を谷間沿いに下っていく道になっており、分岐から10~15分ほど歩くと「夫婦岩遺跡」と書かれた標識と共に2体の巨岩が出現する。

なぜここだけ「遺跡」の表示になっているのは謎。何か遺物が見つかったのだろうか。その意味なら八畳岩や盗人岩にも「遺跡」と銘打って良いはずだが、基準は不明瞭である。

写真左側の立岩手前は崩落したのか赤土むき出しの窪みが開けており、近年補強したのか、数段のテラスに形成した石垣が築かれている。
2体とも立岩状であり、どちらが男でどちらが女かはわからない。薬師寺著書には未登場。

吉備中山
夫婦岩

不動岩


前述の福田海の敷地内にまつられている自然の巨岩。
福田海は明治時代に結成された新宗教ですが、福田海ができる前ここは有木神社という神社があり、背後の峰を有木山と呼んでいた。

有木神社は明治時代に備中吉備津彦神社に合祀され、現在は跡地に小祠が残るのみだが、薬師寺氏によれば、有木神社は平安時代に都人の間で屏風絵の舞台や和歌の題材として用いられるような著名な場所だったと指摘されている。
不動岩も自然岩である以上、有木神社が盛行していた時期、あるいは神社祭祀以前から、吉備の中山の山麓祭祀の一端を担っていた可能性がある。

内宮石


『梁塵秘抄』(平安末期)に吉備津の「内の宮」と記される。
江戸時代の吉備津神社境内絵図には11個の石が環状に描画されており、傍らに「内宮石」と記されている。

この内宮は、明治時代に吉備津神社境内摂社の本宮に合祀されたため、旧社地は人跡が絶えている。
1989年に薬師寺氏ほか数名が踏査したところ、旧社地であることを示す石碑や石段跡が見つかった。11個の内宮石は完存していないようで、その名残と思われる一部の岩石を発見するにとどまった。

平安末期の「内の宮」が江戸時代絵図の内宮石と同じものを指すかには若干の検討の余地もあるが、吉備の中山に散見される「環状列石」という祭祀形態が、戦前戦後の巨石文化研究の安易な影響によるものではなく、少なくとも江戸時代から実在したことは特筆していい。

影向石


吉備の中山の西麓にかつて新宮と呼ばれる社があり、明治時代に内宮と共に本宮に合祀された。
旧社地には「影向石」と刻字のある石碑が立てられ、以前そこが神のいた場所だったことを今に伝えている。
石碑としての岩石祭祀事例である。

「S山」山頂遺跡


「S山」とは薬師寺氏命名による仮称で、内宮石のほぼ真南に位置する峰に名前がないため、吉備の中山の南(=South)の峰という意味で付けられた。
ここには「イワクラ」と思しき岩石があったというが、鉄塔が建設された時に破壊され、その際に弥生時代の分銅形土製品・石剣・弥生土器片などが見つかったらしい。
どのような調査報告に基づくものなのかは薬師寺氏の著書に書かれていないので不明。

2018年5月4日金曜日

白山とダンノダイラ~三輪山の奥~(奈良県桜井市)



奈良県桜井市辻728番地に、眞言律宗 巻向山 奥不動寺という寺がある。

奥不動寺

ここは、大神神社の神体山で著名な三輪山(標高467m)と巻向山(標高567m)の間に位置する。
三輪山の知名度に反して、この三輪山の奥にある奥不動寺の一帯が取り上げられる機会は少ない。
本項では、白山とダンノダイラの2ヶ所の奥三輪を紹介する。

■ 白山


奥不動寺から北に山道があり、急登を3分で景色が一変する。

白山

白山

白山

白山

この岩山を白山(標高486m)と呼ぶ。

周囲が緑に囲まれた中で、ここだけが一面真っ白の岩峰と化している。
表土が流出して、地中の岩盤が一面に露出したものと思われる。
歩いているだけでも岩盤はボロボロ剥離する地形だが、なぜここだけこのようなことになってしまったのか。

その位置的な近さから、奥不動寺の霊場としてうってつけだが、奥不動寺によって特に行場や信仰の場を示すものはない。

白山
上写真の奥方に(直接は見えないが)三輪山が位置する。

昔もこのような岩山だったと仮定して、三輪山をまつっていた人々がこの白山を知っていたら、三輪山最奥部の聖域として神聖視されていたのではないかというインパクトがある。
むしろ、奥津磐座を知るはずの三輪山の祭祀主体が、少し歩けばたどりつくこの圧倒的聖域を知らないということがありうるのだろうか。

まったく古代史に登場しない場所である。

白山

白山

桜井市文化財協会の中村利光氏の「ちょっと寄り道第5回 山頂が一面蒼白の白山」「桜井市立埋蔵文化財センター」内)によれば、白山には天狗岩という立岩があると記している。


ダンノダイラ


奥不動寺の東方約500m地点に広がる緩やかな山腹一帯をダンノダイラといい、その東端に「磐座」としてまつられた露岩がある。
ここは桜井市の出雲地区に属する。




ダンノダイラについては、現地に「野見宿禰顕彰会」という団体が作った懇切丁寧な解説板があり、奥不動寺からも案内標識が充実している。
以下はこの現地解説板に基づいて紹介をする。

嘉永年間(1848~1854年)に作成されたという「和州式上郡出雲村古地図」によると、巻向山の中腹にダンノダイラという地名があり、ここは明治時代の初め頃まで人々が住み、その宅地や田の跡が残っているという。
ダンノダイラ上方には湧水沼があり、そこから流れた小川と思しき流水路跡がダンノダイラに現存していることから、確かに人がかつて住んでいたのだろう。
信憑性は定かではないが、小川跡からは6~12世紀の土器片も採集されたという情報もある。

ダンノダイラ
ダンノダイラに残る小川跡

ダンノダイラの南麓には出雲村(桜井市出雲地区)がある。
明治の初め頃までは、年に一度出雲村の人々がダンノダイラへ登り飲み食いや相撲をして遊ぶという風習があったと、1964年に村の年配の方の証言があったことが記録されている。
出雲村の十二柱神社にはかつて社殿がなく、ダンノダイラにある「磐座」を拝む場だったという。

このようにダンノダイラは麓の出雲村と関係が深いとされる場所で、中にはここが古代の出雲ムラで、日本神話の出雲国神話や『日本書紀』の野見宿禰伝説の舞台となったという仮説もあるが、そこまで話が進むとやや批判的に見なければいけない。

ダンノダイラの「磐座」は、急傾斜面の山肌に露出する岩崖である。
岩崖の上にある2~3体の岩にも供献皿や注連縄が残され、まとめて神聖視されている。

ダンノダイラ

ダンノダイラ

ダンノダイラの中央やや西寄りに、「天壇」と名付けられた場所がある。
マウンド(といってもかなり緩やかで自然地形の延長線上)の頂部に集石が残る。

天壇とは、中国の天子が冬至の日に天帝をまつるために設けた祭壇のことで、その日本式天壇に該当すると皇學館大學の村野豪先生が述べたという解説が現地に立てられている。
前提条件がいろいろとわからないので素直に納得はできないが、集石があるのは確かである。

ダンノダイラ
「天壇」

ダンノダイラも郷土研究が入り混じりミステリアスな現状となっているが、個人的にはその郷土史家にさえ何も語られない白山に、より関心を惹かれる。