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2018年2月19日月曜日

俱盧尊佛/黒尊佛/鉾島(和歌山県田辺市)


和歌山県田辺市本宮町大津荷字津荷谷

俱盧尊佛
村の東谷にあり高さ十餘丈の巌をいふなり疱瘡神と崇む又鉾島ともいふ邑民奉祭する者より疱瘡護符を出す
(天保10年、1839年完成『紀伊続風土記』http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765519 国立国会図書館デジタルコレクション108ページ参照)

現地では黒尊佛(黒尊仏)とも表記されるこの場所は、インターネット上でもいくつか探訪記がUPされているが、これらの記述だけでたどりつくのは至難ではないか?

何を隠そう、私は各インターネットページを参照した上で昨夏に一度現地を数時間探索しましたが、見つけることができずに一度断念しています。

その後、現地を知る方から詳細な道順を教えていただき、先月末に再訪を決意。
結果、これでも一発では辿りつけず、迷ってしまいました。

発狂しながらあちらこちらの谷をしらみつぶしに踏み入った結果、何とか発見。
半年越しの報告と相成ったわけです。

苦労して見つけると達成感はあるものの、それはある種の勘違いでしょう。
プレーンな気持ちで、岩石を見ることをおすすめします。
思わせぶりな記述で濁して後続の方には同じ思いをさせたくないですし、あちこちに踏み跡をつけることが良いこととは思わないので、ここにできる限り詳しい行程を掲載しておきます。
道は、歩かれてこそ道になるのです。

ということで、さっそく出し惜しみせず黒尊佛へのルート図を掲載します。
(以下、一度見た方向けではなく、初見の方向けに書きます)


正確な縮尺ではないのであしからず。
林道終点から、沢沿いを進む道と斜面上を行く道の大きく2ルートあるのが、逆に迷わせます。
終点すぐに坂を登り斜面上を進むルートの方が、結果としては分かりやすいです。ただ、最初の踏み跡が細くて分岐も多いので、初見で正しいルートを見つけられるかが運命の分かれ目だと思います。

何回か渡河することになりますが、増水していなければ足をぬらさずに、じゅうぶん渡れる沢です。
(雨天翌日など、増水時は渡れないとの情報もあるので注意。当日だけでなく前日の天候も考慮してください)


黒尊佛への取りつき口となる林道大津荷線。
軽自動車なら林道終点まで入ってOKだと思います。
大小の落石があるので、車の底は傷をつける覚悟でどうぞ。
私は国道からの分岐に車を置いて、この林道を歩きました。終点まで徒歩約40分。


途中に集落跡があります。
かつてあった津荷谷村の遺構とみられています。
(「村影弥太郎の集落紀行――津荷谷」http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/30.Wakayama/Hongu_Tsugadani.html


林道終点。写真中央奥に、ピンクのテープが巻かれた木が2本あり、その間からいよいよ山道となります。
なお、ピンクテープが巻かれた木は随所に登場しますが、これは複数の作業道で多用されているので、これを信じて歩いていってもたどりつくことは困難です。

2018.1探訪時

まずは沢沿いルートです。
(略地図を適宜参照してください)
すぐにこのような看板と沢に出会います。
実は昨夏に訪れた時は、この沢に丸太橋がかかっていました(下写真)

2017.8探訪時

いつからかかっていた橋かはわかりませんが、たった半年足らずで光景が変わってしまいました。
でも、橋がなくても沢を直接渡河できますのでご安心を。

沢の対岸は、平らでしっかりとした踏み跡が沢沿いに続きます。
しかし10分ほど歩いていると突然終わりが来ます。


写真が光で飛んでいてすみませんが、川の合流点のような場所で道が消失します。
(左から別の沢が合流する感じ)
唯一先に行けそうなのが、沢の左岸左奥側。
そこで再び渡河して左から合流する沢沿いに上流方面へ向かおうとしますが、大きな岩が沢を塞ぐようにどんと鎮座しており、無理をすれば行けないことないが、その先の保証がない状態で無謀に進みたくない、そんなギリギリの景色。

結果から言えば、ここをむりやり進めば黒尊佛のほうへ行けるのですが、その時の私はビビったというか、「こんな踏み跡とも思えない先に、黒尊佛への正しい道はつながっていないのでは?」と思って、周りをうろうろ観察。
すると、その左から合流してきた沢の左斜面の上の方に、なんだか作業道のようなものが見えるのです。
これがまた、本当に山道なのかどうかが、少し自信のない微妙な見え方。
急斜面のため、一度登ってもし違っていたら、今度は下るのがキツい傾斜でした。

他にアテがないため、逡巡した挙句、急斜面を登りました。
結果、正解。しっかり歩かれている山道に取りつくことができました。
一度見つけてしまえば、この山道で林道終点側に戻ることもできます。これが、斜面上を行くルートです。
この斜面上ルートの方が、林道終点から道は見つかりにくいですが、先述したような沢沿いルートの渡河も急斜面登りもしなくてすむので、今から斜面上のルートも教えます。


まず、林道終点のピンクテープ2本の間を入るのは同じ。
しかし、2本の間に入ったら、すぐに下写真の細い坂を上がってください。

ピンクテープ左側の幹の真後ろに見える細い坂が見えますか?これです。

これです!(写真真ん中)
この坂を上がると、略地図を見てほしいのですが、まるで段々畑のように平らな道に見える部分と、上に登る坂のような踏み跡が数段に渡って構成されています。
文章では説明しにくいので、略地図のように、何段か上に上がってください。他の道のようなものに惑わされてはいけません。


ブルーシートの残骸のようなものが見えてきたら、それを超えればゴールです。
(ただしこのブルーシートいつまで残っているか・・・)


ブルーシート横を通り過ぎて坂を登ったら、登りつめた所に山道が一本通っています。
登って左に行くと谷間があり、黒尊佛とは違う方向に行くので、右へつづら折りのように鋭角に曲がります。

この山道を進むと、途中で谷間に丸太橋を渡してある場所を通過します。


この橋はまだ歩ける状態ですが、いつまであるか。
これがなくなったら、谷間を下り上りですが、ちょっと危ないルートになってしまうかも。

橋を渡ってしばらく歩けば、私が沢沿いのルートから無理やり急斜面を上がった先の山道につながります。


では、話を戻してその先を案内します。

下のような看板が出てきます。

黒尊仏

こんな看板に出会うとうれしいですよね。
右下に降りる道があります。看板の矢印に従い、右下に降りてください。
沢まで降りれます。


沢沿いにまだ道が続いているので、ノーヒントだと、ついついこの沢沿いに上流に向かってしまうのですが・・・これが罠です。
この"自然な"沢沿いの踏み跡は黒尊佛への道ではなく、 どこか別の場所へ行ってしまいます(略地図参照)
なまじ作業道として使われていたようなので、私は2度目の探訪時、この上流の奥まで行ってしまいどん詰まり、万事休すになりました。
この自然な道を疑い、看板のところまで戻ってくるという決断を下すことが一番大変でした。

さて、正解のルートは、斜面を下った後に出会う上写真の沢を「渡河する」です。

・・・ここに看板が1つ欲しいです・・・。

上写真をご覧ください。写真の右奥にピンクテープが巻かれた木がありますね。
平らな植林地帯の様相を呈しており、よく見ると沢の際に石垣も見えます。
これが目印です。

植林が凄いので、伐採用の作業道ではないか?と半信半疑でしたが、もはや万事休すの私は、この道をダメもとで進んでみることにしました。

このルートが正解でした。


このような、伐採林の中を5分ほど歩きます。
本当にあるのか?と自分の中の疑心暗鬼と戦いつづけていると、

黒尊仏

看板が木の脇にもたれかかっています。

黒尊仏

まさに、見つけた時の気持ちは「南無・・・」
他のネットページの皆さん、この看板に出会うまでのルート、省略しすぎです。

「祭 毎年旧1月18日」の文字が。
新暦で言うと3月5日?私の誕生日です・・・。それはどうでもいいですが、縁ですね。

現在の様子を見るかぎり、もはやこの祭りは途絶えています。
千手観音に見立てられた信仰でもあるのだということを知ることができる、貴重な情報源としての看板です。

この看板を見つければ、もうゴールインしたも同じ。
看板横の踏み跡を3分も進めば黒尊佛と出会います。

黒尊仏

ファーストインプレッション。沢沿いに屹立する存在。

黒尊仏

正面はこちらでしょうか。
かつてまつられていた時の設備が残されています。

黒尊仏

クレーター状の窪みが蜂の巣状に広がっている、独特な外貌をしています。

黒尊仏

黒尊佛の頂部

黒尊仏

やや遠巻きから、黒尊佛の祭祀場の全景を映そうとしますが、まったく一枚に収められません。
いつものことですが、現地のスケール感が写真ではまったくつたわりません。

そこで、動画もUPしますので、参考としてください。



当日、小雨が降るなか、雨カッパ着用で撮影。

黒尊仏

それにしても、一種のおどろおどろしさ、生々しさのようなものを無機物であるはずの岩石から感じます。
特にこの窪み様と下部の黒光りする岩肌に、黒尊および疱瘡神としての神格を感じずにはいられません。

地質学的には、熊野地域に広がる熊野層群の中に局所的にマグマが噴出した火成岩の名残で、石英斑岩の岩質とのこと。
(田辺ジオパーク研究会「地質遺産の物語 田辺・みなべ編 №40 黒尊仏」http://tajiken.org/topics/topics.cgi?pg=10 紀伊民報の記事ありhttp://tajiken.org/topics/img/122-2.jpg

この記事によると、地元の古老格の方の貴重な証言として

  • 津荷谷村の村人がまつっていた。
  • 元々は社があった。
  • 旧暦1/18の祭では、のぼりをたてて太鼓を打ちながらしながら参詣し、赤飯と餅をお供えしていた。
  • 1953年7月の水害で社が流されて、この祭りは途絶えた。
  • 1990年に元村人が中心となり祭を復活させたが、約15年ほどで高齢化などの理由で再び途絶える。
  • 2011年9月までは鉄製の鳥居や石灯籠が健在だったが、同月の水害によりこれらも流され今に至る。

たしかに、現在残る祭祀設備は残骸の様相です。

黒尊仏

御神燈ですから、本来は上部があり、現在は下部のみ残存。
安政六未四月(1859年)の銘があります。貴重な文化財のはずです。

黒尊仏

願主名、所属、地区名も。

黒尊仏

ビール瓶。いつぞやの祭の遺物でしょうか。

黒尊仏

火を起こしていたのでしょうか。

黒尊仏

黒尊佛の下部は黒光りし、岩肌をえぐるように沢が流れます。
清浄な沢ですが、水害の爪痕を残すかのように、へし折れた草木が無秩序に散乱しています。
鳥居や灯籠の残骸もこの辺りに落ち込んでいるのでしょうか。

黒尊仏

一方、生き残った一部の祭祀施設。

黒尊仏

黒尊佛に隣接して、このような露岩群が斜面上方にかけて広がっています。

黒尊仏

上流側から映した黒尊佛の遠景。
「鉾島」の名前にふさわしいと思います。

黒尊仏

黒尊佛を沢を挟んだ向かい側には、このような(写真では伝わりにくいですが)一大岩盤がそそり立っています。
始め、こちらが黒尊佛かと勘違いしたほどの存在感です。

ネットページによっては、こちらの岩盤のほうが元来の祀り場であるという記述も見かけましたが、「津荷谷の地元の方の証言・記録に立脚しているか」で批判的に臨む必要があります。
検証可能な資料や出典元でない限り、その直観に私は乗れません。

その直観自体は現代の新たな信仰として肯定しますが、「古来の信仰・歴史が何であったか」をかき乱す危険性と覚悟も自覚して、それを言っているのかということです。

すべては、黒尊佛を現代につなぎわたした津荷谷の方々を最優先にして、この黒尊佛に接するべきです。

2018年2月5日月曜日

高水上命形石/巖の社/岩やしろ/岩井神社旧跡/石井神社旧跡(三重県伊勢市)


三重県伊勢市宇治館町字岩井田山

通称「内宮の磐座」と呼ばれ、イワクラ学会でも公開の可否に物議を醸したといわれるが、今はインターネットなどでも訪れる人が続出し、その存在が広まっているようである。

その実情はどうであるのか、情報が錯綜する前に、この機会にまとめておく。

■ 現地の様子


巌の社/岩やしろ/石井神社旧跡/高水上命形石

神宮司庁の北入口にこんもりとした丘があり、道路沿いからも森の中に巨岩が見えている。
石橋も架けられており、特に何も隠されてはいない。

この丘の一帯は少なくとも江戸時代から岩井戸山と呼ばれ、朝熊山の登山口の一つとして知られていた。

巌の社/岩やしろ/石井神社旧跡/高水上命形石

数体の巨岩が群集している。
丘の頂部ではなく、直下の斜面に立地している。

巌の社/岩やしろ/石井神社旧跡/高水上命形石

1体の巨岩はそそりたっており、高さ6mを超えると推測される。

巌の社/岩やしろ/石井神社旧跡/高水上命形石

巨岩群のすぐ上は平らな頂面が広がる。
伊勢神宮の式年遷宮の折、神宮御用材を伐採するためための祭祀として山口祭がここで催行される。

■この巨岩群について触れられている文献


1.『宇治郷之図』

文久元年(1861年)に描かれた『宇治郷之図』に、この巨岩の絵が図示されている。

伊勢古地図研究会編『宇治郷之圖』(伊勢文化会議所、1997年)より引用
画像の真ん中あたりに岩の絵があり、その横に「岩井神社」と記されている。

この絵図について解説を加える伊勢古地図研究会が、同書でこの巨岩群について次のように言及している。

「現在は本絵図の示す位置に神社はないが、その位置に巨岩があり、近世以後内宮の遷宮諸祭のうちの山口祭がこの岩(巌)の傍らで行なわれている。異説があるため断定には至っていないが、この地が神宮末社の岩井神社の跡地であるともいわれている。末社の岩井神社は倭姫命が定められたとの伝承をもつ神社であり、祭神は高水上命であるが、古くに社殿は廃絶しており、現在は津長神社に同座している。」(伊勢古地図研究会編『宇治郷之圖』伊勢文化会議所、1997年)


2.『皇大神宮儀式帳』

岩井神社は、石井神社として延暦23年(804年)完成の『皇大神宮儀式帳』に記載があり、「石井(イハヰ)神社 大水神兒高水上命形石坐」と記されている。
高水上命(タカミナカミノミコト)は伊勢神宮の公式見解によれば石清水の神とされており、石と水の両属性を神名としたのが石井となる。

伊勢神宮の摂末社の多くは「形石坐」と記されており、石積みや石畳に神をまつる祭祀が盛んだった。
だから、とりたてて石井神社だけが石のまつり場というわけではないのだが、他と違い自然の巨岩群をまつる摂末社は石井神社だけだろう。
石井神社は延喜式内社ではないため、おそらくは当時祠がなく、岩を神社とみなした場所だったのだろうと思われる。

その点において、この岩の名前の文献上最古の名称として「高水上命形石」を第一に挙げておきたい。


3.伊勢参宮名所図会

そのほか、寛政9年(1797年)刊行の『伊勢参宮名所図会』にも、この巨岩群は登場する。

国立国会図書館デジタルコレクションより(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952764

画像の左上に、岩の絵と共に「岩やしろ」と書かれている。
同書には「石井神社 石井田山にあり これを巖の社とも云」(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952764)と紹介されており、「巖の社」もこの巨岩群を表す名称として認められるだろう。


4.勢陽五鈴遺響

江戸時代の伊勢国の郷土資料として知られる1833年(天保4年)完成の『勢陽五鈴遺響』にも、石井神社と巌社の関係が記されている。

「巖社遥拝所 祓所ノ南ノ石畳ナリ 今此処ヲ神域ノ第一ナル故ニ方俗一ノ宮ト称ス 是本祠ハ館町ノ北東岩井田ニアル石井神社也」(安岡親毅著・倉田正邦校訂『勢陽五鈴遺響』5、三重県郷土資料刊行会、1978年

石井神社が江戸時代当時、俗称として巖社(巖の社)と呼ばれていたことは、これで複数の文献に記載されていることから明らかである。
その巖社にはさらに遥拝所があり、それは内宮の一の鳥居の内側の神域に石畳の形で設置されていた。
鳥居内の神域内の最初のまつり場という意味で、一ノ宮と呼ばれていたというのも興味深い情報である。


5.櫻井勝之進『伊勢神宮』

櫻井勝之進『伊勢神宮』(学生社、1969年)によれば、巖社遥拝所をはじめとする、神宮境内のあちこちに増設されていった石畳や石積は、四至神や瀧祭神など一部を除いてほとんどが、明治時代になって整理(撤去)されたという。

話の本筋からは脇にそれるが、これらの石畳・石積について櫻井氏は次のように述べている。

「(四至神などの)祭壇には榊の根もとに特徴のある形をした石が若干据えられている。これに眼をとめて、神道では石を拝むのかと問う人もいる。また、すこし古典にくわしい人は、さすがに伊勢には古代のイワクラが生きているともいう。どちらも早とちりであることはいうまでもないが、説き明かすのには時間がかかる。」(櫻井勝之進『伊勢神宮』学生社、1969年)

これらの石はイワクラではないという意見であり、早とちりなのは言うまでもないとのことだが、いや、言うまでもないというような簡単な問いではないだろう。
櫻井氏が何も説明してくれないので勝手な推測となるが、おそらく、人為的な施設における石は祭神の象徴・目印としての御形だから磐座神としての信仰とは異なるという考え方なのだろう。
とすれば何となく言いたいこともわかるのだが、思わせぶりな言い方で論拠を明かさないこの書き方はやや閉口する。

同書では石井神社の巨岩群については明言していないが、一言、「岩井田には末社石井神社の旧跡があり」と記している。旧跡=巨岩のことだろうか。


6.木村政生『神宮御杣山の変遷に関する研究』

木村政生『神宮御杣山の変遷に関する研究』(国書刊行会、2001年)は、その名のとおり神宮御用材を切り出す山である御杣山についての研究書であり、ここにも石井神社旧跡の名が出てくる。

「遷宮最初の祭である山口祭が、内宮は神路山の入口にある岩井田山の石井神社旧跡の地で行われ、一方、外宮は高倉山の麓である神域内の土宮の東南において執り行われるのは、古来の御杣の山口に当るためであり、現在までの例になっていることによっても考えられる。」(木村政生『神宮御杣山の変遷に関する研究』国書刊行会、2001年)

岩井田山にある旧跡で山口祭が行われる・・・これだけの条件が揃えば、旧跡とは、巨岩群を指すと考えてまず間違いはないだろう。

したがって、伊勢古地図研究会が「異説があるため断定には至っていないが」と慎重を期した記述にとどめているものの、実際に絵図には「岩井神社」とも書いてあるのだから、巨岩群が平安時代『皇大神宮儀式帳』以来のまつり場である石井神社/岩井神社/巖社/岩やしろであることは認めてもいいのではないか。


山口祭の場所に選ばれ、内宮正殿のほぼ真北に位置するという意味深な場所ではあるが、これまで見てきたように、決して当地は隠された場所でも公開に物議を醸すような場所ではない。
明治時代に石井神社は近くの津長神社に合祀されたことから、巨岩群での祭祀の足跡は姿を消したように見えるが、それは単に私たちの耳に入っていないだけで、調べれば古文献や絵図に明記され、現在でも伊勢神宮を専門とする研究者には周知の場所だった。

いたずらに陰謀論的な世界観に陥る前に、まずは虚心に先人の残した歴史を調べてからにしたい。そうしないと、歴史が曇ってしまい歴史に失礼なことになる。
私は、この巨岩群のために「内宮の磐座」という、先人が呼んでこなかったセンセーショナルな名前には与しない。


2018年1月25日木曜日

加佐登神社と石(三重県鈴鹿市)


三重県鈴鹿市加佐登町2012

日本武尊は伊勢国の能褒野(能煩野)で亡くなったとされるが、尊の笠と杖を神体としてまつったのが加佐登神社で、境内の白鳥塚は日本武尊墓として、本居宣長を始めとする江戸時代の国学者に比定された。
*宮内庁が指定した日本武尊御陵は三重県亀山市の丁子塚(能褒野王塚古墳)

加佐登神社
白鳥塚
白鳥塚は、考古学的には白鳥塚古墳群の1号墳に該当し、古くはヒヨドリ塚・茶臼山・丸山・経塚などと呼ばれた。
従来、直径は東西78m、南北60mで、高さ13.3mの三重県内最大の円墳として有名だったが、平成17年の調査によって帆立貝式の前方後円墳と判明した。

『延喜式』諸陵寮に「遠墓」として、「在伊勢国鈴鹿郡。兆域東西二町。南北二町。守戸三軒。」という記載がある。

「『ヤマトタケル』の名も日本の勇者という普通名詞で、固有名ではないという。実在でない人物の墓を求める事も、あるいは無意味かもしれない。しかし少なくとも、平安時代初期には、その陵墓は鈴鹿郡のどこかに実在していた事は確かである。このような尊の伝承が、この地方に多いということは、鈴鹿川河谷が、当時の大和王朝の東国経営上、重要な路線にあたっていたという歴史・地理的な背景があったからであろう」(鈴鹿市編『鈴鹿市史』第1巻、1980年)

尊の実在とはまた別のテーマとして、平安初期に尊の墓が鈴鹿群に実在し、二町(220m)四方の境域をもち、墓守の家が三軒あったという事実には目を向けてもいいだろう。

加佐登神社
加佐登神社拝殿


加佐登神社の社頭、賽銭箱の隣に1体の石がある。

加佐登神社
社頭に安置された石


神主さんにお話をうかがったところ、この石は先代以前の神主が境内から見つけたものとのこと。
石には弧帯状の白い模様が見られ、ゴツゴツとした頂部と一部亀裂も認められる、独特な外見をなしている。
これが境内にいるという白蛇の姿に擬せられ、ただならぬ石として安置されることになった。

加佐登神社は、尊が死の間際につけていた笠をまつる御笠社と伝わることから、諸病平癒の霊験で知られていた。

信仰の根本は日本武尊およびその神体である笠と杖にあるが、そこから派生し、この石も病にご利益のある石として、患部が治るように石を撫でに来る人もいるらしい。
(力石や重軽石のように、石を持って上げることを否定するものではないが、撫でる方法のほうが自然な様子)

石の名前は特にないとのこと。
変な方向に進まないように、不用意にPRをする考えはないが、定期的に下の座布団は替え、安置を続けていくという神主さんの真摯なお話をうかがうことができた。
私もそのお考えを忠実に尊重したい。

2018年1月4日木曜日

三尾影向石(滋賀県大津市)


滋賀県大津市園城寺町 三井寺境内

三尾影向石

俗人には、目にもかからぬ"凡石"の体を一見なしている。
なぜ、この石なのか。
だからこそ、考え深い。

三尾影向石

三尾影向石

「三尾明神は長等山の地主神なり。貞観元年智証大師御入寺に際し、三尾三神(白尾、赤尾、黒尾)此の処に会合し大師をお迎えし大師の護法を約された。 この奥の谷を琴尾谷と称し、この清流に天人浴河されたと伝えられたと伝えられる。琴尾谷に三尾明神の磐座あり。」(現地看板)

琴尾谷の磐座は「この奥の谷」とあるので、本影向石とはまた別の存在か。
磐座と影向石の違いとは?

2017年12月14日木曜日

礫石(三重県松阪市飯高町)



紀州街道の珍布峠に接して櫛田川が流れ、川中に礫石がある。
天照大神が伊勢外山との国境を決めるために川に投げ入れた石と伝えられる。
詳細は以下の現地看板が詳しい。

礫石

礫石

礫石

礫石

礫石

礫石

礫石