2017年5月7日日曜日

矢内原伊作「石との対話」 ~『日本の名随筆 石』を読む その15~

――石の家に住まぬ日本人は、それだけかえって石に特別の思いをよせ、石によってさまざまな感情を養ってきたのである。

古墳の石室に葬られた被葬者は、石の家に住んでいるとみなされるだろうか。
石の家に住む者が人ならざるものを示すとするなら、被葬者が祖霊となり、磐座に宿るものが神となるのもうなずける。
――石をたてることは自然に対して抵抗することである。

『作庭記』の、まず石をたてることが肝要とする旨を思い出す。
作庭という行為は自然のままを是とせず、人から見た自然の創造となる。
自然への抵抗を恐れるから、禁忌が多いのだろうか。
こう考えていくと、「作庭」と「祭祀」の境界線がないような気がする。
――われわれが一つの石を見て感動するのは、その自然の造形の背後にある地水火風の力を感じるからである。

たとえば、石が川水の浸食で丸い石となるところに水の力を感じ、 長年の風化で凹凸を生じた岩崖に風の力を感じる。
山頂の地表面に露出した岩盤を見て、その地中深くにまで根を張る山の基盤を想像することもあるだろう。
石そのものを見てどうこうというだけではなく、石が通ってきたストーリーを想像することで、石に自然の偉大な力が帯びてくる。
――石という呪術的信仰の対象を美意識の対象に転ずることによって、竜安寺(京都)の石庭をはじめ、多くのみごとな庭園ができたのだった。(中略)造形の美ではなく、実は自然の霊力といったものではないだろうか。

神聖なものと美しいものの違い(差)は、岩石に限らない大きなテーマである。
信仰の対象を美意識の対象に転ずる、とは簡単に言うが、どのような心の転化なのだろうか?
信仰には信仰対象の尊重からしばしば祭祀行為の中で自己犠牲が伴うが、美しさの認定は必ずしもそうではなく、自己本位的な価値判断ですむ。鑑賞するだけでいいのだから。
祭祀行為の有無がこの二者の区別と見ることもできるし、祭祀行為がなくなり観賞の対象となる中で、信仰対象主体の考え方から、人間主体の考え方に移行している心の移り変わりも感じとれる。
――かたくつめたい石はきびしく声明を拒否している。しかし、それだけにかえって、無言の石は、動物や植物以上に自然の力を強く感じさせるのである。

以前、「墓石や石のことわざも岩石信仰なんですか?」で石のことわざに触れたが、石を冷徹で正規のないものと表す言葉があることは確かである。
一方で、それだけでないことわざがあるのも指摘したとおりであり、石に対する人々のイメージが一面的ではなく多面的であることを示している。
石の哲学も、作者それぞれのイメージから発露されるものであり、多くの哲学の渉猟が必要である。
――人類がはじめてつくったもの、それはいうまでもなく石器である。石は自然に抵抗する自然だとわたしはいったが、その石を用いることによって人類は自然に抵抗し、さらには自然を支配することを知ったのだった。

宇佐美英治「殺生石」でも同様のことが語られていた。
人類がはじめてつくったものが石器とは限らないが・・・。
考古学では、石が無機物で残りやすいから資料として目立つということは半ば共通認識なので、土になってしまった有機物に対するまなざしは必要だ。
当時の人々にとって言語化されていない理屈があっただろうから、それを言語化することが、歴史に対する正しい研究法なのかもよく考えないといけない。

2017年5月4日木曜日

ひかる石(三重県いなべ市北勢町)


三重県いなべ市北勢町皷

皷地区の薬師堂にケヤキの木がそびえている。

光る石

ケヤキの幹に、石が刺さっているのがわかるだろうか。

光る石

光る石

光りかがやくことから「ひかる石」の名がある。

かつて、ある庄屋がこの石を自宅の庭に移したが、日を追うごとに光が弱まり、ある夜、「さじべえ(薬師堂のこと)行きたい」と泣き声を上げたことから、驚いた庄屋は元の場所に戻したそうである。

その後、ひかる石は泣き声を止めて、再び光を戻したそうだ。

<参考文献>
員弁郡国語サークル編 『国民教育シリーズ32 いなべの民話』 員弁郡教職員組合 1985年

土生神社の三つ石(三重県いなべ市大安町)


三重県いなべ市大安町梅戸字三ッ石

土生神社の三つ石
土生神社境内。注連縄が巻かれた三体の石が参道の両脇に見える。

土生神社の三つ石

土生神社の三つ石

土生神社の三つ石

当地を梅戸井といい、かつて三つの村があった。

この三つの村の堺にあったとされるのがこの石で、「三郷の堺石」とも呼ばれていた。

願い事を叶えてくれる石として、地元の人々がよくお参りした。
石を揺らすと雨を降らせたり、オコリなどの病気を治したりと万能の霊石だったようだ。

このような民話がある。

ある時、梅さんと竹さんという二人の村人が、この石を自分たちだけのものにしようとして、一番軽そうな石を掘り出そうとした。
しかし、掘れども掘れども終わりは見えず、やがて二人は石化して亡くなったという祟り伝説を持っている。

この石の存在から、梅戸井郷の一称として三石郷の名がある。

<参考文献>
大安町教育委員会編 『大安町史 第1巻』 大安町 1986年
員弁郡国語サークル編 『国民教育シリーズ32 いなべの民話』 員弁郡教職員組合 1985年

2017年5月3日水曜日

しゃごさんの石/しゃごんさんの石(三重県員弁郡東員町)


三重県員弁郡東員町大木字南条屋敷

個人宅敷地内に現存。
所有者の方に許可を得て拝見した。

しゃごさん


しゃごさん

文化・文政年間(1804年~1830年)に著された松宮周節『伊勢輯雑記』に、神石としてこの石の記述がある。

元はこの地に赤口神社(社護神社)があり、久那斗神を祭神としていた(現在は大木神社に合祀)。

大木の八幡神社(これも現在は大木神社に合祀)の御旅所で、歳迎えの宮とも呼んだ。

御神体は金の鳥で、この金鳥のおかげで当地は雷が落ちても火災に見舞われることはなかったという。
(なお、当地の近辺には秋葉姓を名乗る方が多く、火伏の秋葉信仰との関連性が強い)

その金鳥が降りた石といい、石自体も神聖視された。
石に触ると「ネブト」(腫物)ができ、足を乗せると足に病が出て歩けなくなると信じられた。

しゃごさんの石(『いなべの民話』によれば しゃごんさんの石)として、東員町を代表する民話の1つとして各種郷土資料にも収録されている。

とある旅の男がこの石に腰を掛け、隣に咲いていた山つつじの枝を折って自分のわらじをはらい、そのわらじを石の上に置いた。
一休みしてから歩き始めたものの、歩くごとに足が重くなり、しびれるような痛みがさしてきた。
その時、「先ほどの石まで戻れ」とどこからか声が聞こえ、石まで戻ると、石の上にはわらじの土がくっついていて、山つつじの枝も石の周りに散らばっていた。
これが原因と恥じ入り、石の上の土を掃除して、枝も石の周りの土にさしてお詫びをしたところ、足の痛みは引いていった。
のちに、旅の男はこの時の声の主に感謝の気持ちとして、鈴鹿の山裾の村に祠をまつったという。

しゃごさんの名は、赤口神・社護神すなわちシャグジとしての石神に通じ、シャグジは境界の神と目されるが、詳細は不明である。

当地を案内していただいた地元の方によれば、本石と同じような青石を御神体に用いる神社が近辺に多いとのことである。


<参考文献>

員弁郡国語サークル編 『国民教育シリーズ32 いなべの民話』 員弁郡教職員組合 1985年
東員町史編さん委員会編 『東員町史 下巻』 東員町教育委員会 1989年

ゆうれい石(三重県四日市市)


三重県四日市市西坂部町御館

個人宅敷地内に現存。
所有者の方に許可を得て拝見した。

ゆうれい石

ゆうれい石

ゆうれい石

ゆうれい石

この場所を「そうれん墓地」とも呼ぶ。

高さ50㎝程の、手で持って運べるような大きさの、何の変哲もない石である。

が、この石を家に持って帰ると、寝ている時に女中装束の女のゆうれいが現われるという。
きまって、畳をほうきで掃くようなしぐさを見せるという。

真偽を確かめるため、複数の人がこの石を持ち帰ったが、晩になって例外なくゆうれいが枕元に立ったため、皆おびえてその石を元の場所に戻したという逸話も付帯している。

『みえの民話』の考察によれば、菰野の千種城主の愛姫がこの地で家臣に殺され、その怨念が宿った石ではないかとされている。
根拠として、遍照院の名僧が供養で読経したところ、千種家の紋である笹龍胆が石の上にボオッと浮かんだと語ったとある。

このように聞くと、忌避される存在のような石だが、次のような話もある。

所有者の方の話によると、この石は足の病にご利益があると信じる人がいて、かつては願掛けに来る方もいたという(なお、近くには日本武尊の足洗池がある。関連性は不明)。
今はもう、ゆうれい石を訪れる人も絶えて久しいとのこと。

数十年後には、ゆうれい石の存在も風前の灯かもしれない。

<参考文献>
四日市市三重長寿会 編・発行 『みえの民話』 1977年

2017年4月25日火曜日

能勢七面山の岩神(大阪府豊能郡能勢町)


大阪府豊能郡能勢町倉垣

概要

能勢町と京都府亀岡市の境にそびえる釈迦ヶ嶽(標高512m)。
その南西に伸びる尾根一峰(標高470m)を七面山と言うようだ。

この山は、七面山七寶寺、能勢の高燈籠といった、その方面では濃厚な宗教スポットを擁する。
これらに挟まれるように、歌垣神社と石用山涌泉寺がひっそりと佇む。

歌垣神社と涌泉寺は隣接しており、鎮守-宮寺の関係だったらしい。

裏山中腹に巨岩が露頭し、麓からもその姿が確認できる。
かつては、この巨岩を岩神と呼んでまつったのが歌垣神社の起源であるという。

伝えるところでは、康保2年(965年)に初めて苗代祭りを行ない、建久7年(1196年)に神社を現在の山腹に遷座し、嘉永2年(1625年)に牛頭天王が勧請され、明暦元年(1655年)に日蓮宗総本山身延山の七面天女を岩神の旧址にまつり、明治時代に近在の6社を合祀してその時に地名から歌垣神社と名付けられたという。

能勢七面山の岩神

所感

信仰上の画期は、江戸時代における牛頭天王の勧請と日蓮宗の影響である。

牛頭天王勧請以前、この神社が何をまつり神社名が何だったのかということがはっきりしない。
素盞鳴命のままだったかもしれないし、合祀祭神を除いた中で一柱として載っている大山祇命かもしれないし、祭神記録にも残っていないが宇賀御魂命だったという一説もある。

江戸時代、能勢一円における日蓮宗改宗の動きは活発だったようで、涌泉寺もかつては真言宗龍泉寺だったのが日蓮宗となり、山号・所在地も改めたという。
岩神にも法華経を守護する七面天女がまつられ、山の名前も七面山(甲斐国日蓮宗霊山の七面山に由来)と称された。
涌泉寺が掲げる石用山の山号も、山の特徴を表しているような感がある。

岩神への道はなく、歌垣神社の背後の斜面をひたすら登る。
 地図的には、七面山七寶寺の方から登ったほうが近道になるが、七面山七寶寺は登山のための通り抜けを禁止しているため、このルートは推奨しない。

山の斜面を登っていくと、各所に思わせぶりな露岩群が見える。20分ほど登ると視界が開き、高さ10m以上はあると思われる岩神に到着する。

能勢七面山の岩神

岩神は、崖状に落ち込んだ巨大な岩盤の頂面に、斜め上に突き出た立岩状の岩石が乗っかかり、その2つの間に別の岩塊が差し込まれたかのように挟まっている(詳しくは下写真を参照)。
急斜面の立地にあるので、転石に伴う自然の造形と推測されるが、まさに「天然の屋根」である。

能勢七面山の岩神

また、この岩神の西に接して、頂面が平らな平石とその奥に屏風のように立つ岩石があり、まるで祭壇か修行の台座石かのような光景を見せている。これは人工的と言われてもうなずいてしまいそうな構造物である。

能勢七面山の岩神

さらには、岩神の下方に、転石によるであろうドルメン状の構造物があり、その辺りに郵便受けのような金属製の箱が転がっていた。
裏返してみるとそこは空洞になっており、おそらくこれは小祠を中に収納して雨よけ保護していたものだったと思われる。七面天女の祠の名残だったかもしれない。

能勢七面山の岩神



2017年4月20日木曜日

八つ岩(奈良県天理市)



奈良県天理市長滝町日の谷

参考文献

瀬藤禎祥さん 「日の谷」「八剣神社」「神奈備にようこそ」内)→2010年1月10日アクセス
kokoroさん 「神社による古代史4 石上振神宮略抄より H13.9.17」「神奈備にようこそ」内)→2010年1月10日アクセス
乾健治(1939年原著)・瀬藤禎祥さん(抄訳) 「鳥見山傳称地私考 by 乾健治氏」「神奈備にようこそ」内)→2010年1月10日アクセス
しぇるぱさん 「天理の大国見、奥へ奥へと」「シェルパ散らし踏み」内)→2010年1月10日アクセス

概要

「八ッ岩」と表記する場合もある。スサノオに斬られたヤマタノオロチが神剣になって、あるいは、神剣に付き従って降臨したといわれる岩。


2017年4月13日木曜日

ドラクエと岩石信仰

「ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて」

先日、ドラクエ11の発売日が7月29日と発表されたのを聞きました。

ドラクエ30周年記念作品として、いつもよりもプロモーションや制作に力が入っている模様。

私はドラクエ6までしかプレイしていませんが、今作気になるんですよね。

本作のロゴがドラクエ1の反転だったり、オープニング映像にロトの剣が登場したり、 原点回帰的な内容という噂も聞きます。

かつてロトシリーズに親しんだ身としては、久しぶりにやってみたいという気持ちが沸々。

でも、PS4も3DSも持っていないんですけどね。

ひとまず気を鎮めるべく、ドラクエ11の関連ページを探していたら、こんな記述を発見。

主人公の故郷となるイシの村は,命の大樹が浮かぶ大陸の南にある巨大な岩山近く,渓谷地帯の一角に位置する。この村には,16歳になって成人を迎えた者が,大地の精霊が宿るとされている「神の岩」に登って祈りを捧げるというしきたりがある。

 「4gamer.net」より

「イシの村」で、「神の岩」に「大地の精霊が宿る」かあ・・・。


ドラクエと岩石信仰、来ましたね。

岩石信仰の市民権がさらに広がることは、いいことです。

わたしも自分の趣味を人に伝えやすくなりますし(笑)

ゲーム画面を通して、岩から何かを感じとる、そんなプレイヤーの方が続出してもおかしくないと思います。

私もかつてドラクエのドット絵で、大海原にロマンと想像をたくましくした世代ですから。

ドラクエ11を(ハード的に)プレイするかは分かりませんが、期待しています。

2017年4月12日水曜日

高塚の森(和歌山県東牟婁郡串本町)



和歌山県東牟婁郡串本町潮岬
※潮岬灯台前の有料駐車場の車道挟んだ向かい側の森。見つけにくいが入口に「高塚の森 神武(崇神)天皇郊祀時」の木標あり。

高塚の森

概要

潮岬の突端に鎮座する潮御崎神社の神域とされる森。

森内には円丘状の高まりとそこから露出する岩石があり、地元の伝説では応神天皇の侍従の墓と伝えられ、かつては小祠がまつられていたという(小祠は現存せず)。

昭和40年代、円丘南西側に列石や土堤で整地された平坦地形の存在が指摘され、測量調査が実施される。
また、夏至の日にその平坦地から円丘の露岩上から太陽が上ってくることが確認され、高塚の森は太陽祭祀の場だったとする説が出された。

高塚の森
応神天皇の侍従の墓と伝えられるという土の高まり

所感


現地に案内標識の類が全くないので詳しい場所が分からず、地元の人や近所の人何人かに聞き込みをしましたが誰も知らず。
近くのロッジの方に聞いて「聞いたことはある。行ったことはないがあの森だよ」とやっと教えてもらえました。現地での関心・知名度は絶望的に低いです。
 
森の中は鬱蒼とした雑木林という感じで、真夏に入りたくはない感じ。
しかし森の中には遺跡・遺構であることを示す数々の木標や、歩きやすいように草刈などの整備もされています。
これは地元で高塚の森を長く研究されてこられた「はつくにしらす顕彰会」の木村正治氏の努力によるものと思います。

森の中には、確かに人工的な整地が行なわれていたと言える痕跡が確認できました。
最も明確な人工的痕跡は土堤で、周辺の地形から不自然に盛り上がった堤状・塀状地形が20mほど続いています。
その西に並行して直線状に並んだ列石があり、この列石に90度直交した石列もあり、石列の内と外は段になっています。ここは「斎場」と銘打たれています。

高塚の森
石列の一部

ここから北東方向に進むと「斎庭」と銘打たれた平坦部があり、ここには鏡を夏至日の出方向(北東)に向けた鏡とその支え台が想像たくましく「推定復元」されています。
ここから円丘上から上る日の出を仰ぎ鏡に反射させたということでしょうが、斎庭の平坦面は自然地形の想定内でありこの場所に明確な陣異性は認めがたく、祭祀場であったかどうかには疑問も残ります。

高塚の森

高塚の森

さらに北東に進むと円丘状高まりがあります。
頂部には岩石が見えますが、人工的な石材を置いた古墳・神殿的なものには見えず、土に覆われた岩盤の一部が露出し、風化・浸食によって数個の岩塊に分散したというような露岩の在り方です。従って古墳とは違うと思います。

では祭祀遺跡だったか?というと、ここからは遺物が発見されていないので遺跡の認定はできません。
証明された事実は「斎庭」「斎場」地点から円丘の方向を向くと夏至の日の出が上がるということと、「斎場」地点に人工的な列石・土堤が残るということです。

ここの列石・土堤が「いつ作られたものなのか」「何のために構築されたものなのか」という点も十分な批判的検討を経ているとは思われません。
この森が潮御崎神社の神域で応神天皇の侍従の墓として神聖視されたのがいつの時代からなのか、歴史的な資料の裏付けが求められるところです。
森が神聖視されていない時代に農耕的・土建的な目的で構築された地形改変の跡に過ぎないかもしれませんし、祭祀目的であったとしても古代の設置ではなく、意外と近代以後の設置だったという可能性も残っています。もちろん、他の可能性も・・・。

参考文献


松前健・安井良三「対談 巨石信仰と太陽祭祀」及び北岡賢二「高塚の森」『特集・巨石信仰と太陽祭祀』(東アジアの古代文化 28号) 大和書房 1981年

はつくにしらす顕彰会 木村正治氏のWebサイト「三世紀 古代ロマン 南紀潮岬 謎の巨石遺跡 『高塚の森』=太陽祭祀遺跡研究」 → 2009年8月25日閲覧。現在リンク切れ

(2009年8月25日の旧サイト記事を再掲)

2017年4月5日水曜日

たいち墓/太一墓/加三方磐座遺跡(岡山県)


所在地:岡山県和気郡和気町加三方

金子山中腹の尾根端に立地。
昭和51年に「加三方磐座遺跡」の名称で町指定史跡となっている。

たいち墓
遺跡中心部



遺跡の構造は複雑である。

台座石の上に立石を置いた組石があり、これは人工物と考えられる。
一見すると石碑のようだが、立石に文字などは刻まれていない。
石を立てること自体に意味があったのだと思われるが、その目的・機能ははっきりしない。

たいち墓
組石。三段積みになっており隙間には割石を敷き詰めている。


この組石の北に、8個の細長い岩石が一列に並んでいる。
外見的な印象では、横穴式石室の天井石が露出したようにも見える。

たいち墓
8個の列石。頂面の高さも揃っている。


そして組石の東には1個の丸石があり、その周囲を細長い岩石が3個以上取り囲んでいる。
ここだけ見ると、視覚的には環状列石のような感を呈している。

たいち墓
組石の東に広がる環状列石状構造。 環状に並べられた椅子のようでもある。


さらに組石の南には横穴式石室が1基開口しており、磐座山古墳という名前が付けられている。
径15mの円墳で石室長は8.1m、無袖式という古墳規模から考えて、古墳時代後期の山地帯群集墳の典型例と言える。
金子山には他の尾根筋・谷筋でも複数の古墳が確認されている。

たいち墓
磐座山古墳の石室内部。 古墳は盗掘を受けており出土遺物は確認されていない。


これらの点から考えて、磐座遺跡自体も数基の古墳が1つの尾根に密集したものであり、石室の天井石が露出した姿の可能性がある。
それが後世になって雨乞い祭祀の場になり、石材を再利用して立石の組石を築いたのではないだろうか。

ただ、遺跡北東端に露出する2個の巨石は天井石のように接し合っておらず、自然の岩盤のようにも見える。いずれにせよ開口している1基以外の露岩の地中は調査されていないためこれ以上の判断は保留せざるをえない。

土器片と石包丁が発見されているという情報があるが、詳細な報告書が見当たらず、その点数や発見位置、遺跡及び古墳との関連性は全くの不明である。

ここまでは考古学的な話に終始したが、一方で民俗学的な情報をまとめておきたい。

地元では「たいち墓(太一墓)」と呼ばれ、雨乞いや花見の場所だったといわれている。
磐座という呼び名では語りつがれていなかったことに注意したい。

現地を訪れた際、「たいち墓」までの道を定期的に清掃されている地元の方にお会いすることができた。
その方いわく、かつてはマツタケがよく採れたといい、収穫期には見張りのため地元の人がここで夜通し酒食しながら番をしたという。
しかし、やがてアカマツは枯死し、マツタケは採れなくなったことから、見張りの習慣も今は途絶えているらしい。

また、加三方という地名は、部・三宅・大方という3つの集落名をくっつけた字であり、中心集落は三宅であるが、加三方地区合同の祭事を行なう時に神輿を担げるのは大方だけだそうだ。

「たいち墓(太一墓)」や「雨乞い」というキーワードからは、中国思想(陰陽道・天帝信仰)や天体信仰(北極星・天照信仰)のほか、ここがやはり墓所という認識だったことが読み取れる。
また、花見や酒食の番という風習からは葬送供養時の直会の要素を垣間見ることができる。

以上を綜合すると、立石の組石については墓標の働きがあった可能性と、雨乞いの時の祭祀対象として置かれた可能性があるだろう。

なお、遺跡西北の林道脇に細長い岩石がある。
先述の地元の方の話によると、これを「休み石」と呼び、番をする人が道の途中で腰かけて休むものだったという。
特に祭祀要素はないようだが、他例だと群馬県賀茂神社神籠石の「休め石」などは、祭事に神輿を休めるための岩石として用いられており、全国の類例から考えると当地の「休み石」も元来は祭祀に用いられていた可能性があることを付記しておきたい。

たいち墓
ブッシュで分かりにくいが写真中央が休み石。林道の側溝脇にある。


参考文献

八木敏乗 「加三方」 『岡山の祭祀遺跡』(岡山文庫145) 日本文教出版 1990年

「たいち墓」「磐座山古墳」(奈良文化財研究所「遺跡データベース」検索結果より) →2010年5月30日アクセス。
*上記サイトのたいち墓の座標位置は誤っており、たいち墓と磐座山古墳は隣接しているため磐座山古墳の座標位置が正しい。