2025年7月24日木曜日

大戸のお聖さま(埼玉県さいたま市)


埼玉県さいたま市中央区大戸1丁目から3丁目へ移設


「大戸のお聖さま」は、かつて埼玉県に住んでいた頃からさいたま市指定文化財の石棒と知っていたが、訪れないまま離れてしまった。

2025年7月、埼玉県を約15年ぶりに訪れる機会があり、この目に収めたいと思って現地に足を運んでみた。Googleマップにも大戸1丁目に位置が落ちている。

ところが現地は基壇を残し祠が消えていた。

2025年7月撮影


これはどうしたことか。現地には何の案内もない。

さいたま市のHPを見たところ、「令和7年6月から所在地が中央区大戸1丁目から中央区大戸3丁目に変更になりました」と追記されていた。
更新日は2025年7月11日で、訪問日のちょうど10日前の更新だった。私が訪れるこの1か月の間で、お聖さまを取り巻く状況が一変したことになる。

大戸3丁目とはいうが、細かい番地や地図がHPに掲載されてなくて困った。このように難易度の高い訪問になるとは予想しておらず、とりあえず現地でいろいろ調べてみた。


まず、大戸3丁目には大戸不動尊、お不動様、御嶽神社などがあり、それらの寺社の境内に移設されたのではないかと目星をつけた。

そこでそれぞれを尋ね歩いた。
大戸不動尊には多くの石仏石塔が集められていたが、堂内および境内を一巡しても最近移設されたような石棒は見当たらなかつた。

大戸不動尊境内

お不動様と御嶽神社は住宅地の前に隣り合うように存在したが、こちらにもそれらしきものは置かれていない。
いよいよ困ったが、ちょうど自治会役員の表札を掲げられているお宅を見かけたので、自治会の方なら何か事情をご存知かもしれないと思ってインターホンを押した。

お時間をいただき、地元で詳しいと思われる方を数珠つなぎでご紹介いただいたところ、その方が「●●さんが保管されている」とのこと。
お聖さんがなぜ移設されることになったのかの事情は皆様存じ上げていなかったが、教えていただいた●●さん宅へ向かう。

個人宅内での保管なら拝観は難しいかもしれないと心配したが、お宅の前に到着したところ、その隣に「大戸のお聖さま」の看板と共に祠ごと移設されていた。

移設後の姿。左は大戸稲荷、右がお聖さま。




堂内に現在まつられる石棒は江戸時代末期の製作(江戸時代の文化財)ということだが、大戸では大戸本村三号遺跡で石棒が出土しており、すぐ近くには縄文時代前期の住居跡からなる大戸貝塚が見つかっている。

大戸貝塚看板

どうやら元々はこのような縄文時代の石棒を後世にまつって「お聖さま」として信仰したらしい。中西紫雲「浦和だより」(『上毛及上毛人』126号 1927年)には以下の記述がある。
「『お聖様』の由来を尋ねし處、其家の老人曰く、此祠にはもと、三尺計りの古代の石棒が祀つてありましたが、今より十四五年前、何人かに盗まれまして、洵に惜しいことをしました。それで、其石棒の形に因みて、陽物形の如くに造り、再び祀つたのであります」(前掲書)
現在の石棒が高さ56cmなので、元は三尺(1m弱)とさらに大きかったようである。

しかしながら、文献発表年から計算すれば十四五年前は1910年代となるが、現地看板が記す江戸時代末期製作という伝とは年代が離れているように見受ける。
木製の陽物も複数まつられているので他のものを指した可能性や再度盗難に遭い今の石棒に登場願った可能性などあるが、前掲の地元老人の談を踏まえるとやや怪しい。この辺りにも語られぬ歴史がまだ潜んでいるのかもしれない。

ひとまず、大戸のお聖さまの最新の位置を記録することができたという点で、インターネット上の本ページの意味も有用だろう。
そのうち各地図アプリの位置も変更されると思われるが、それまで当面の訪問時は、併祀されている「大戸稲荷社」を目印に尋ねると良い。


2025年7月19日土曜日

『郷土』石特集号の岩石再点検


『郷土』第2巻第1・2・3号合冊(1932年)は「石特集号」と題され、岩石と民俗の関係を語る上では古くから著名な一冊である。


さて、この石特集号に記された数多の岩石について、誰が一つ一つをあらためて吟味しただろうか。


同書では住所も旧村単位の表記が多く、それに加えて「私の郷里の山の中」「●●氏邸の裏山」などの困った紹介も散見する。

発刊当時の時代背景を加味すればやむなしだが、『郷土』石特集号を手に携えて現地を訪ねても特定は困難を極めるだろう。


掲載された一つ一つの記録を、まさに岩石の文化財として再点検しなければならない。

このページでは、調べられる範囲で掲載事例の岩石の現在地をGoogleマップで示した。

※追記:複数のGoogleマップを同時掲載するとページが重くなり正常に表示されなかったので、最初の事例を除いて後はリンクを貼るのみに変更した。


その他の留意事項は次のとおりである。

  • 私が見聞きしたことない事例をメモした(既知の事例は除外)。
  • 喜田貞吉と折口信夫の論考は事例記録とは性質が異なる内容のため除外した。
  • 日本国内の事例のみメモした。
  • 自然石のみをメモした。石仏・石像などの石造物のほか、陰陽石などの性石は数が多く石棒遺物との類別が難しく除外した(例外あり)。
  • 地域一帯に広がり特定の場、特定の岩石を指さない風習(石拾いなど)は除外した。
  • 個人宅所有も基本的に除外したが、外から確認できそうな一部の事例はメモした。
  • 以上を踏まえて、合計269事例に上った。
  • 推測地がいまだ多いため、現地確認された方や、緯度経度の座標で特定できた方はお知らせください。都度修正します。


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2025年7月17日木曜日

沖ノ磯(愛知県田原市)


愛知県田原市白磯


豊丸皇子一行が最初に白谷海岸に漂着した岩礁といわれる。

豊丸皇子伝説については下記事参照。



中根洋治氏『愛知発巨石信仰』(愛知磐座研究会 2002年)に沖ノ磯の写真が載っている。

細長い岩石が、防波堤の手前に顔を少しだけ出している。

これと類似した光景が、白谷海浜公園の北岸に見える。

現地表示はなく自信はないが、防波堤の前に細長い岩石とさらにその手前にも岩石がある。

潮が引いていれば歩いていくこともできそうだ。


2025年7月13日日曜日

聖坊/聖棒(愛知県田原市)

愛知県田原市白磯 白谷海浜公園内


白谷海浜公園の駐車場端(上地図参照)に、三本柱の石灰岩が立って注連縄が巻かれている。
現地看板には「聖坊」とあり、中根洋治氏『愛知発巨石信仰』(愛知磐座研究会 2002年)には「聖棒」と表記される。

もともと目の前の海岸に浮かんでいた岩礁であり、庚申の供養が行われる場だったという。海岸が埋め立てられた際に、現在地へ移設保存されたという。

現地看板は平成5年の銘が記されるが、中根氏著書によると現在の場所に移されたのは平成12年とあり、現地看板は原位置にかつて飾られていたものを一緒に移したものかもしれない。




2025年7月6日日曜日

オミタケ(愛知県田原市)

愛知県田原市白谷町犬喰

白谷には「オミタケ」と呼ばれる岩壁がある。これも高さが5m程の岩壁で、以前は根元に祠があったそうだが、今は礎石のみ残っている。字名は犬喰という。
中根洋治『愛知発巨石信仰』愛知磐座研究会 2002年
同書には白谷の見取位置図が掲載されているが、文字どおり簡潔な地図であり正確な位置がわからない。

中根氏が作成したルートから推測した場所がGoogleマップの中央に示したポイントだが、現地を訪れたところ路傍東側に若干の露岩が確認できた。しかし5mという岩壁の規模には及ばない。
また、草木が繁茂しているため確信が持てないが、石礫が散乱しているものの礎石らしき石材は確認できなかった。

34.67949, 137.23275 座標地点

露岩だが岩壁とまでは言えない。

草むらの中に石礫の散乱は確認できるが、浮石であり礎石とは認めづらい。

道の傍らではなく、道の東側の斜面を少し分け入って登らないと岩壁に出会えないのかもしれない。

この地点のすぐ南で農作業中の方がいらっしゃった。
中根氏の本の写真を見せながらオミタケという名前やこの近くに岩がないかを尋ねたが、存じ上げない反応だった。
ご高齢の女性の方だったので思い当たる記憶がないか期待したが、予想地点の横で畑を所有される方でも心あたりがないのであれば、これ以上の調査はなかなか難しい。


ところで、中根氏地図が指し示すポイントからはやや北に外れてしまうが、Googleマップに示した畑の一画に下写真の光景が存在する。

34.68085, 137.23346 座標地点



まさに高さ5mほどの岩塊の隣にプレハブの建屋が接している。これは何か。

中根氏写真とは異なり、隣に接するのは祠跡というより作業小屋然とした建屋であり、岩石の形状も岩壁という佇まいではないのでオミタケとは別の存在と思われるが、中根氏の言及はない。

畑の所有者の方に出会えれば文章化されていない歴史が語られるかもしれないが、現状としては不明の岩石として報告のみしておく。