2025年5月5日月曜日

岩畳神社の神歌石(愛知県豊川市)


愛知県豊川市御津町泙野新屋敷 御津山
神歌石
泙野字新屋敷に在り険阻なる岩窟なり三河藻塩草に云昔この処に御津神社の別当在ますとあり自然の石窟の如き石がまへありて小社ありこれを石畳荒神と称す蒼海を眼下に見はらして景色いとよき処なり
早川直八郎, 早川彦右衛門 著『三河国宝飯郡誌』,早川直八郎[ほか],明24-26. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/765323 (参照 2025-05-05) ※カタカナをひらがなに直した。
御津大神此山へ昇進し玉ひ、南海を見下し、景色自ら称し一首の御詠吟に、大嶋や千代の松原岩畳くずれゆくとも我はまもらん
御津町町史編纂委員会 編『御津町史』史料編 下巻,御津町,1982.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12158035 (参照 2025-05-05) ※カタカナをひらがなに直した。




岩畳神社の社殿背後の斜面上に存在する。岩畳神社は古文献上では石畳荒神・岩畳荒神の名で記される。

御津大神がここで歌を詠んだ伝説から神歌石の名がある。他で聞かない命名であり、読みかた(音)は「しんかせき」で良いのかわからない。

眼下に海をおさめる眺望の良さがうたわれているが、現在は樹林繁茂によりその景観を追憶できない。

神歌石から岩畳神社社殿を見下ろす。

岩畳神社の社殿も岩肌に接して築かれる。


2025年5月3日土曜日

朝熊山の岩石信仰(三重県伊勢市)


三重県伊勢市朝熊町


朝熊山の岩盤

朝熊山の頂上展望台に岩盤があり、それが朝熊山の磐座ではないかという話がある。





朝熊山頂展望台の名前をもつが、厳密にはこの山の最高所はここ(標高506m地点)ではなく、西のピーク標高555m地点が朝熊ヶ岳頂上である。
西ピークには龍池という聖なる池があり、そこに八大龍王社がまつられる。その南の経ヶ峰と称される一帯からは、経塚の遺構・遺跡も見つかり朝熊山経塚として知られている。

このように、朝熊山の信仰史における山頂は、岩盤がある東ピークではなく西ピーク側で語られてきた。しかし、これほどの規模の岩盤が展望台建設まで人に見つからず、歴史的に見過ごされてきたとも考えにくい。何かしらの記録が残っているのではないか。

本記事は、この岩盤を巡る諸説をまとめたものである。

藤本浩一が見た「岩船」

藤本浩一『磐座紀行』(向陽書房 1982年)では、朝熊山に「岩船」なる岩石があったことを記している。
舟形石があって、大神降臨の時の天の岩船であると伝えられている。その石の所在を尋ね歩いているうち、「今は山上になく市中に移されている」と、偶然知っていた人に出会い、岩船の前に案内してもらった。八畳と六畳二間続きの室を祭壇にしているが、奥の六畳間には仏壇を祀り、前の八畳間の室は床を落として、岩船石を安置してある。直径二メートルの上面は鏡のように滑らかで、高さは五十センチくらいである。注連縄をめぐらして礼拝できるように灯明をともしている。なぜ山上から民家へ降ろされたのか、当主が不在であるためわからなかった。(藤本 1982年)
朝熊山にあったという岩船が、後に市中の民家に移されたという話である。
なぜ民家の当主が不在なのに、別人の案内で室内を拝観できたのかが気にかかるが、藤本の記述では場所が特定できない。

岩船の文献調査

この岩船は江戸時代から戦前にかけてよく知られた存在だったらしく、さまざまな文献に登場する。

正保年間(1644~1648年)に伊勢神宮神官の度会清在が記したという『毎事問』下には、伊勢の諸事について問答形式で答える中で、次の問いが載せられている。
磐舟とて舟形なる石に注連を環らし太神宮の乗給ふ舟なりと云、何れの時に太神の此舟にて是山へ来り給ふや
(神宮司庁編『大神宮叢書 第6 前篇』1940年。カタカナをひらがなに直した)
藤本が記した、天照大神降臨の天の岩船という話はここから出たものだろう。
この問いに対して、度会清在は石が水に浮くわけがなく、また、山に船が行くというのは理に合わず、実物を見ても小さくて人ましてや神が乗る場所はないことから「妄作漫言」の類と正論をもって一刀両断している。

伊勢神宮公式側に立つ渡会家の人物よりこのような辛辣な答えが返されたからか、それ以降の文献において天照と絡めた話は出てこなくなる。

正徳3年(1713年)の『志陽略志』には「岩船明神社」の名で登場し、「朝熊山にあり、何れの神を祀るか知らず、是を鎮守として祀る」とある(中岡志州『志摩国郷土史』中岡書店 1975年)。
神社としてまつられているものの、天照の船であるという話は取り除かれており、神名不明の鎮守(朝熊山のかどうかは読み取れない)と位置付けられている。

寛政10年(1798年)の『皇大神宮参詣順路図会』になると、岩船は瑞宝院なる禅宗寺院の堂内にあると書かれる。岩船は縦7尺、横3尺、厚さ2尺を計り、これを岩船の宮と呼ぶと記す(『大日本地誌大系 第11冊』1916年)。仏教色の濃い扱いとなる。

嘉永4年(1851年)の『勢国見聞集』では、巻九に「岩船弁財天」、巻十六に「岩船」の名で登場し、いずれも縦2尺、横7尺、高さ2尺と記される(『松阪市史 第8巻 史料編 地誌 1 勢国見聞集』松阪市史編さん委員会 1979年)。『皇大神宮参詣順路図会』とは縦横の寸法が逆転して1尺ほどの差はあるものの、同一物だろう。
この尺貫法をメートル法に直せば、藤本が記した直径2m、高さ50㎝におおよそ符合する。
岩船は弁財天をまつると記され、由来不詳の鎮守は弁財天となった。山中の位置も詳細に記され、朝熊山参詣道の路傍に、西国三十三観世音と共に同じ堂内に置かれていたという。

さらに時代が下り、1905年に霞雪(筆名か)という方が残した朝熊山の探訪記「しま巡り」によると、岩船弁天は船形の自然石の上に弁財天を安置していたと記している(『日本弁護士協会録事』84号 1905年)。この時も岩船弁財天としての信仰で続いていた様子が覗われる。

文献上では、天照の岩船が否定的にみられたのち、神名不詳の鎮守となり、後に弁財天に仮託されたという信仰史が描き出せるだろう。

岩船があった朝熊山内の場所とは

この岩船は、朝熊山の頂上ではなく参詣道中の堂内にあったという。それはどこだったか。

寛政9年(1797年)の『伊勢参宮名所図会』巻五には朝熊山の名所が紹介されている。この紹介順は麓からの参拝順とみなしてよい。
岩船弁財天は、楠部嶺、一宇田嶺、弘法茶屋の後で、萬金丹(野間茶屋)、下乗、金剛證寺の前である(『大日本名所図会』第1輯 第4編 大日本名所図会刊行会 1919年)。絵図にも万金丹の茶屋の奥方(下斜面)の道沿いに「岩船」と注記された建物(堂)が見える。

天保3年(1832年)の『伊勢朝熊岳之絵図』を見ても、野間の万金丹本家から内宮道を下って行った絵図奥に「岩船弁天」の建物が観音堂に接して描かれている(『伊勢朝熊岳 金剛證寺』金剛證寺 2024年)。観音堂は前述した西国三十三観世音をまつる堂と思われる。

日本初の山岳百科事典と称される高頭式編『日本山岳志』(1906年)でも、朝熊山を登山順に紹介する中で岩船弁財天堂が記される。
場所は、大黒岩の先で萬金丹薬館の前であり「朝熊嶺より下乗にいたる右傍にあり、社宇の内に状船に似たる巨岩あり、長七尺、横二尺、高三尺許、是を弁財天女に祀る」と記す(高頭式『日本山岳志』野島出版 1970年。カタカナをひらがなに直した)。

これらの情報を綜合して現地に当てはめると、岩船弁財天の場所が大体絞り込める。
朝熊岳道のうち、内宮から金剛證寺にいたる内宮道(宇治岳道)の路傍にあり、位置は弘法茶屋や大黒岩よりは上で下乗や野間茶屋よりは下ということになる。

そして、とどめは大場磐雄博士の『楽石雑筆』1940年~1941年の記述にある(『大場磐雄著作集』第8巻 雄山閣出版 1977年)。
大場博士は朝熊山にある「明暦元年十二月三千日参碑」の記録と撮影をおこなっており、「同碑は岩舟弁財天右側にあり」と明記している。

さて、以上の情報を地図上で綜合しよう。
三重県環境生活部文化振興課が作成したウォーキング・マップ「朝熊岳道」がpdfで公開されており、この中の7ページ目「宇治3・A」の地図番号18が「野間万金丹本舗跡」である。
そして、地図番号7の「地蔵結願碑」に、「明暦元乙未歳十二月□ 日」「三千日結願碑」の刻字があることから、大場博士が記録した碑と同一物であることがわかる。

岩船弁財天の堂は、この碑の右側にあったということでここに位置が確定できる。
そして今、現地には堂も岩船も存在しない。

岩船が移された「民家」の場所とは

戦前1940年代初頭までは大場博士の記述によって岩船弁財天が朝熊山中にあったことはわかるが、その後、おそらく戦前戦後の時期に弁財天の堂は撤去され、岩船は山の下におろされた。

藤本は岩船を市中の「民家」で見たというが、仏壇と共に室内にまつられ、しかも民家の当主なしでも拝むことができていた。このことから、民家は民家でもある程度不特定多数が見れる位置にあったか公開されていたか、というところだろうか。
しかし、伊勢内宮前の市中でそのような場所があれば、すでに岩船は誰かによって位置が特定されているものではないか。
一般的な私的な民家でもないし、外から見れる場所でもないように思える。

このあたりの前提を踏まえて調査した結果、唯一、ヒントになりうる情報を見つけた。

皇學館大学名誉教授の櫻井治男氏が翻刻した「資料翻刻『神三郡神社参詣記』(四)」(『皇學館大学神道研究所紀要』第4集 1988年)に、以下の記述を見つけた。
表江出て右側に、高き石垣内ニ松の木ある広き屋敷なり、慶光院殿の御宮なり、南の方石の鳥井あり弁財天女の社なり、此弁財天神路山二有しを、秀吉公御再建之時此所江移し祀り給ふト云、御建立の時御湯立かまあり、今奥にある岩船弁財天も元ハ当院の支配なりト云、石鳥井内ニ瓦屋根之内に社(櫻井 1988年)
岩船弁財天の名がここで登場する。

慶光院の屋敷内、南のほうに石鳥居があり瓦屋根で葺かれた社があり、弁財天をまつる社だという。
そして、この弁財天は秀吉時代に神路山から移したものだが、「今奥にある」岩船弁財天も慶光院の支配下にあったと読める。

慶光院は内宮前の宇治の街中にある。


元は尼院だったが明治2年に廃寺となり、明治5年からは神宮司庁の所有となり今に至る。
基本的に非公開の施設で、年にごくわずか公開日があるらしい。
公開日に見学した人が弁財天の社を実際に見たかの情報が欲しいところだが、このように特殊な性質を持つ屋敷であり、藤本浩一が案内を受けた人が神宮司庁の関係者やある程度寛容に入れる時代の空気だったならば、個人の私邸でないからこそ中に入ることができた可能性が浮上する。

『神三郡神社参詣記』は世古口藤平が明治初期に見聞した伊勢の神社地誌であり、ちょうど寺から所有者が変わる頃の記録ということになる。

本書の記述の「今奥にある」の意味がとりづらい。
「今」は明治初頭を指すが、「奥」は秀吉期に移した弁財天社の「奥」にあるという意味なのか、宇治の街中の奥にある(つまり朝熊山)という意味なのかがわからない。

素直に読めば前者だが、『日本山岳志』や霞雪氏の記録、そして大場博士の記述を踏まえると、この頃はまだ岩船弁財天は朝熊山中にあったと思われ、場所が矛盾してしまう。

岩船弁財天「も」「元は」当院の支配だったという書きかたから、神路山の弁財天とは別の存在であり、離れた場所の岩船弁財天も元・慶光院の所有だったと書いていると理解できる。
もし神路山の弁財天の奥という意味なら、すでに慶光院の屋敷内にあるので、わざわざ当院の支配などと書く必然性に欠けるというのもある。

ならば、岩船弁財天が山中から移された先も、所縁のある慶光院にあるという推測が成り立つ。元所有者とも言え、すでに神路山の弁財天社も移されている地だから追加して移しやすい風土がある。

懸念点は、当然非公開なので推測に過ぎないということと、藤本浩一がなぜ慶光院と書かず民家という書きかたをしたかである。
慶光院ほどの場所であれば個人の民家とは違い公共性があるので、名前を出して書きそうなものである。
また、昭和時代の鷹揚さはあっただろうが、それでも神宮司庁の庁舎であり他人の案内で入れたのか。さらに、「当主」という書きかたをしたのも気になる。個人邸を念頭に置いた書きかたとも言える。
そういう点では、慶光院そのものではなく、慶光院の関係者や子孫縁者に属する方の邸内に移されている可能性もあり、その場合は秘匿性が増すので所在確認の難易度は大いに高まる。

いずれにしても、時機到来して慶光院の公開日に見学できれば確認したいし、すでにご覧になった方の情報提供を待ちたいところである。

再び朝熊山の岩盤へ…

長い「寄り道」の末、冒頭の山頂展望台の岩盤へ話を戻そう。

これまでの調査を踏まえれば、岩船は朝熊山岳道の道中(山腹)にあったため、件の岩盤とは無関係の存在となる。
(ただし、仏堂以前の『毎事問』『志陽略志』の時期も同じ場所に存したかははっきりしない)

その他、朝熊山で伝え継がれているものとしては次の岩石がある。

  • 天狗石
  • 大黒岩
  • 朝字石
  • 獅子岩
  • 独鈷石
  • 二法石
  • 心経石
  • 畺目石
  • 七日石

すべて朝熊山の名跡として各種文献(坂本徳次郎氏『二見浦名勝誌 附 神都案内』二見興玉神社々務所 1913年 ほか)に列挙されるのだが、この内、位置がある程度確定できるのは前3者(天狗石・大黒岩・朝字石)に限られ、少なくともこれらは展望台の岩盤を指さない。

さらに、七日石はおそらく七社神(朝熊の鎮守という)にある岩石で、七社神は金剛証寺境内の薬師堂の社(法光院)という記述があり(『皇大神宮参詣順路図会』)、文殊大満獅子石ともあるので上記の獅子岩と同一かもしれない。ならばこれらも異なる。

逆言すれば残りの岩石名(独鈷石・二法石・心経石・畺目石)については、件の岩盤を指す可能性がまだ残っている。

金剛證寺境内。顕彰碑の前の壇上に置かれる自然石。このような岩石にも名があり歴史がある可能性を否定できない。

最後に、朝熊山縁起に関わる話を紹介する。
室町時代成立とされる『朝熊岳儀軌』には、赤精童子・雨宝童子が朝熊山の三鈷洞傍らの岩石に立ったという縁起がある。

この岩石には「朝」の字が足跡として残ったという故事から朝字石の名がつき、それは境内の連珠池の池の中にあるというが見ることはできない。
なぜならこの池は常に濁っているのが良いとされていて、清らかなときは変異の兆として避けられているからだ(安岡親毅著・倉田正邦校訂『三重県郷土資料叢書第25集 勢陽五鈴遺響(1)』三重県郷土資料刊行会 1975年)。

朝字石があるという連珠池(連間の池)

傍の三鈷洞は、金剛證寺を開創したという伝説的修験者・暁台上人が修行して聖徳太子が小野妹子を遣わして仏舎利を納めたという聖跡だが「三鈷洞の存在を今は知る統べもない」(前掲『伊勢朝熊岳 金剛證寺』2024年)とのことである。
件の岩盤は洞穴構造を持っているわけではないので伝承地として適切とは言えないが、この「洞」がいわゆる洞窟のようなものを指したか、岩陰構造をもつ岩石を含めたものだったかは不明である。

以上、朝熊山の岩盤について候補となりうる情報をまとめたが、ご覧のように多くの謎を残した。朝熊山の岩石信仰の地についてさらなる情報をお持ちの方はぜひご教示ください。

2025年4月30日水曜日

チジュウサン(奈良県奈良市)


奈良県奈良市大柳生町上脇垣内


岸田史生氏「垣内をめぐる村落祭祀と座―奈良市大柳生町の事例より―」(『鷹陵史学』第24号、1998年)において「チジュウサン」と記された場所。

「弥勒の道プロジェクト」(@mirokunomichi)さんのXポストで存在を知り、所在地の詳細やお持ちの情報について多大な情報提供をいただいた。ここに記して謝意を表したい。


アクセスについては、ご教示いただいたオープンデータ地図「OpenStreetMap」に位置が公開されておりわかりやすい(下記URL)。この地図どおりに行けば辿りつける。麓から徒歩約15~20分。

https://www.openstreetmap.org/?#map=17/34.707725/135.922154

チリュウ神社・チリウ神社の仮称もあるが、地元の方が実際に何と呼んでいるかはわからない(探訪時、現地の方とお会いすることができなかった)。したがって前掲文献に明記されたチジュウサンを本記事では採用する。





現地に立った所感としては、山の中腹でここにだけ岩塊が群集しており、その特異さから岩石ありきの信仰の地として成立したことは疑いない。

まるでかき集めたかのようにも見えるが、産総研が公開する「20万分の1日本シームレス地質図」を見ると、当地は花崗岩地帯に花崗閃緑岩の岩相が谷状に差し込まれた地質であるらしく、谷間と尾根の境目に現れ出た露岩群であるように思われる。


この岩群のすぐ手前斜面から水が湧き出し、谷間をつたって沢が流れているのも当地がもつ聖地的特徴である。

露岩群手前の湧水(写真中央)

社のすぐ前までは、谷間に形成された水田がかつて広がっていたようである。現在は山から回り込んで下る形で参拝するが、元来は下の水田から登る形で参っていたのではないか。その点において、麓の里の農耕生活と密着したまつりの場と言える。

藤本浩一氏が『磐座紀行』(向陽書房、1982年)において、稲作農耕民が谷間に水田を開拓していく中で谷間の露岩に出会い磐座祭祀の場としたというくだりも思い出せる典型例である。


さて、前掲の岸田氏文献では「本社は愛知県知多半島の知立神社」とあるが、弥勒の道プロジェクトさんによれば戦後になって愛知県知立神社との音の類似から結びつけられたものとのことである。

当地は、チリウデン・チリウテン・イワモト・岩本などの小字が入り混じっており、この内のチリウをチリュウ(知立)に当てたということになる。

このような音の一致により無関係な場所同士を関連付ける試みは近代以降の知識の庶民化により全国各地でおこなわれたものと類推される。


では「チリウデン/チリウテン」とは何かという話になる。

デン/テンが現地に広がる「田」で、「チジュウサン」の「サン」は愛称という常識論止まりであり、チリウ/チジュウに関しては岩石信仰の関係では類似の名称に出会ったことがない。岩石信仰とは無関係の語源に属すのではないかという見立てが精一杯である。

イワモト・岩本の「岩」は当地の岩群に由来する可能性もあるが、当地からは若干離れている字とも言え、『全国遺跡地図(奈良県)』(文化財保護委員会、1968年)によるとその辺りには西山北古墳群と名付けられた群集墳がある(当地の山を西山と呼ぶか)。もしかしたら石室石材の後世開発・盗掘による露出と絡めた地名だったかもしれない。


当地は、ちょうど南北にそれぞれ西山北古墳群(16基)・西山南古墳群(19基)が分布しており、独立した尾根上に片墓古墳と呼ばれる直径16mの比較的大型の円墳も築かれている。

片墓古墳

このような古墳群の中に存在する自然岩塊がチジュウサンである。人足が立ち入った歴史の中でチジュウサンがまったく自然のままの岩石分布でありつづけたのか、何らかの生活所産の結果としてここに岩石群が集まっているのか判断の難しいところがあるが、これが全国各地で見られる岩石信仰と古墳の同居問題である。事実として、自然岩塊が古墳の墓域に残り続けて存在する事例は多い。


なお、チジュウサンに行き着く手前には、上脇垣内の境を示す勧請縄が渡されている。

西山山中の勧請縄

アクセスルートとしては勧請縄の外=集落外の地ということになるが、先述のとおり元来は谷間からのアクセスが想定されるので結論としてはチジュウサンは集落の境に存する聖地という位置づけが適切だろう。


2025年4月19日土曜日

狂人石(岐阜県高山市)


岐阜県高山市桜町 櫻山八幡宮境内



相当腕白であった私さへ、何となく薄気味悪くてこの石に敢て触れることを憚ったものである。勿論、誰れが言ひ出したのか知らないが、この石に触れると気狂ひになったり、瘧をふるったりするといふのである。別に神秘的伝説といふやうなものもない。ただそれだけの言ひ伝へなのである。もっともこの辺には天狗が住ってゐて、御機嫌に障ると石段の上から、なげ落すといふことも一般に信じられてゐたし、実際に子供が石段の中程からなぜ落されたが、少しも怪我をしてゐなかったのを見たと語った老人もある。

福田夕咲「祟り石の話」『ひだびと』第4年(4),飛騨考古土俗学会,1936-04. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1491863 (参照 2025-04-19)
※旧字体を新字体に直した。


櫻山八幡宮は、仁徳天皇治世期に両面宿難追討に来た難波根子武振熊命が応神天皇を奉祭したとも、聖武天皇治世期に八幡信仰の影響を受けて創建されたとも、大永年間(1521~1528年)に岩清水八幡宮から分霊を授かり勧請されたともいわれる。

その櫻山八幡宮の境内末社に、元和9年(1623年)、高山城鎮護の神として飛騨領主金森重頼によって創建された秋葉神社が鎮座する。秋葉神社の社殿北側に存在するのが狂人石である。

神社境内にあって聖なる岩石の感ありだが、神宿るとか祭祀されている事例とは一線を画す。畏敬を通り越した畏怖・忌避の対象としての岩石と言える。


2025年4月12日土曜日

いぼ石/いぼ神様(岐阜県恵那市)


岐阜県恵那市中野方町

2010年撮影

中野方の福地境と、大峰に天然水のたまったくぼんだ石がある。その水をつけるとイボがとれるといういい伝えがある。

恵那市史編纂委員会 編『恵那市史』恵那のむかしばなしとうた,恵那市,1974. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9536746 (参照 2025-04-12)

現地看板によれば、雨水がたまって木の葉などが溶け込んだ窪みだったので、水は腐って真っ黒だったという。それがなぜかイボや皮膚病に効くということで、「いぼ神様」として神格化に至った例である。

1993年、峠道が二車線に拡幅された際にいぼ石が道にさしかかってしまったため、いぼ石の上部だけを切り取って車道脇に移設し、昔のよすがを偲ぶ措置がとられた。