2016年4月10日日曜日

ガストン・バシュラール「岩石」(及川馥・訳『大地と意志の夢想』思潮社、1972年)その2

岩石を夢想するひとは、もちろんそのプロフィルのたわむれだけに満足することもないし、その一時的なフォルムに名前をあてはめていくあそびにも満足しない。

「砂岩はこの世にあるうちでもっとも面白く、もっとも奇妙なふうに捏ねあげられた岩である。それは岩のなかでは、ちょうど木でいうなら楡の木のようなものなのだ。表面をとりつくろわず、むら気なところもなく、夢を追うこともない。それはあらゆる顔かたちをとり、あらゆる渋面を作る。それは複雑なたましいによって動かされているようだ。こういうものについて、たましいということばを使ったことをお許しいただきたい。」(ヴィクトル・ユーゴー『アルプス山脈とピレネー山脈』)

メンヒールたちは夜になると行ったりきたりする そしてお互いに少しずつ噛りあう ・・・・・・ 冷たい舟が岩の上に人間をおしあげ そしてしめつける。(ギルヴィク『水と陸よりなるもの』[カルナック])

巨大な石はその不動性そのものによって、むしろ浮き出してくるような能動的な印象を、つねに与えるように思われる。

「大地の外につきでた大理石の巨大なかたまりや荒野の原始的場景。」「人間たちがどうして石を熱愛するのか手にとるように判る。それは石ではないのだ。それは人類以前の時代の強力な大地の神秘的な力の顕現である。」(D.H.ローレンス『カンガルー』)

理性が岩を不動といったところで無駄なのである。知覚が石はあいかわらず同じ位置にあると確認しても無駄だ。経験が奇怪な石も温順な形であるとわれわれに説得しても無効だ。挑発的な想像力が戦闘に参加してしまったからである。

「かれは力をこめ、威嚇的に石のまわりを睨みつける。かれはその石を割るのだ。どうしていけなかろう。一個の石に許しがたい憎しみを感じるとき、石を割るのは単なる儀式にすぎない。それがもし、石が抵抗し、倒れることを拒否したならばどうだろう。そのとき、情容赦のないこの死闘で、どどちらが生き残るか判るはずだ。」(クヌート・ハムスン『奴隷の土地の目覚め』)

ではなぜ石の世界は敵意に対する敵意、制御された恐怖に対する無言の敵意を、人間に送り返えさないことがあろうか。

岩石を行動的に眺めるということは、そのときから挑発体制下におかれることを意味する。それは巨大な力に加担し、そしておしつぶすようなイマージュ群を支配することだ。

岩石はこのように原形のイマージュなのであり、現実のすべての深みと冗漫さを生きるすべをわれわれに学ばせる能動的文学、行動性の文学を体現するものなのである。



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