2017年4月25日火曜日

能勢七面山の岩神(大阪府豊能郡能勢町)


大阪府豊能郡能勢町倉垣

概要

能勢町と京都府亀岡市の境にそびえる釈迦ヶ嶽(標高512m)。
その南西に伸びる尾根一峰(標高470m)を七面山と言うようだ。

この山は、七面山七寶寺、能勢の高燈籠といった、その方面では濃厚な宗教スポットを擁する。
これらに挟まれるように、歌垣神社と石用山涌泉寺がひっそりと佇む。

歌垣神社と涌泉寺は隣接しており、鎮守-宮寺の関係だったらしい。

裏山中腹に巨岩が露頭し、麓からもその姿が確認できる。
かつては、この巨岩を岩神と呼んでまつったのが歌垣神社の起源であるという。

伝えるところでは、康保2年(965年)に初めて苗代祭りを行ない、建久7年(1196年)に神社を現在の山腹に遷座し、嘉永2年(1625年)に牛頭天王が勧請され、明暦元年(1655年)に日蓮宗総本山身延山の七面天女を岩神の旧址にまつり、明治時代に近在の6社を合祀してその時に地名から歌垣神社と名付けられたという。

能勢七面山の岩神


所感

信仰上の画期は、江戸時代における牛頭天王の勧請と日蓮宗の影響である。

牛頭天王勧請以前、この神社が何をまつり神社名が何だったのかということがはっきりしない。
素盞鳴命のままだったかもしれないし、合祀祭神を除いた中で一柱として載っている大山祇命かもしれないし、祭神記録にも残っていないが宇賀御魂命だったという一説もある。

江戸時代、能勢一円における日蓮宗改宗の動きは活発だったようで、涌泉寺もかつては真言宗龍泉寺だったのが日蓮宗となり、山号・所在地も改めたという。
岩神にも法華経を守護する七面天女がまつられ、山の名前も七面山(甲斐国日蓮宗霊山の七面山に由来)と称された。
涌泉寺が掲げる石用山の山号も、山の特徴を表しているような感がある。

岩神への道はなく、歌垣神社の背後の斜面をひたすら登る。
 地図的には、七面山七寶寺の方から登ったほうが近道になるが、七面山七寶寺は登山のための通り抜けを禁止しているため、このルートは推奨しない。

山の斜面を登っていくと、各所に思わせぶりな露岩群が見える。20分ほど登ると視界が開き、高さ10m以上はあると思われる岩神に到着する。

能勢七面山の岩神

岩神は、崖状に落ち込んだ巨大な岩盤の頂面に、斜め上に突き出た立岩状の岩石が乗っかかり、その2つの間に別の岩塊が差し込まれたかのように挟まっている(詳しくは下写真を参照)。
急斜面の立地にあるので、転石に伴う自然の造形と推測されるが、まさに「天然の屋根」である。

能勢七面山の岩神

また、この岩神の西に接して、頂面が平らな平石とその奥に屏風のように立つ岩石があり、まるで祭壇か修行の台座石かのような光景を見せている。これは人工的と言われてもうなずいてしまいそうな構造物である。

能勢七面山の岩神

さらには、岩神の下方に、転石によるであろうドルメン状の構造物があり、その辺りに郵便受けのような金属製の箱が転がっていた。
裏返してみるとそこは空洞になっており、おそらくこれは小祠を中に収納して雨よけ保護していたものだったと思われる。七面天女の祠の名残だったかもしれない。

能勢七面山の岩神



2017年4月20日木曜日

日の谷の八つ岩(奈良県天理市)


奈良県天理市長滝町日の谷

八つ岩の伝承


「八つ岩」は、スサノオに斬られたヤマタノオロチが神剣になって、あるいは、神剣に付き従って降臨したといわれる岩です。「八ッ岩」と表記する場合もあります。

八つ岩については複数の方面からの伝承が残っており、それぞれに多少の違いがあります。以下に整理してみましょう。

(1)長滝町の八つ岩の民話(瀬藤さん「日の谷」から。元は『天理市史』に所収の話というが未確認)

・八岐の大蛇は素盞嗚尊に斬られて、八つの小蛇に分かれて天に昇り、水雷神と化した。
・水雷神は天のむら雲の神剣に付き従って、布留川の川上にある日の谷に降臨して八大竜王となった。これが八つ岩となる。
・天武天皇代(673~686年)、物部邑智という神主が「八つの竜が神剣を守って、出雲から布留川の奥の山の中に飛び落ちた」という夢を見て、現地に行くと岩に神剣が刺さっていて、八体の岩にはじけていた。
・一人の神女が現れて「神剣を布留社(石上神宮)の高庭にお祭りください」と述べるので神社を建ててまつった。これが現在の出雲建雄神社である。

(2)天理市田井庄町に鎮座する八剣神社の社伝(瀬藤さん「八剣神社」から)

・八岐大蛇は素盞男尊に斬られて天に昇り、神剣に姿を変えて布留川の上流にある八箇岩に降臨し、水雷神として信仰された。
・貞観年間(859~877年)に里の氏神としてまつるため、布留川下流に八剣神社(延喜式内 夜都伎神社の論社)が建てられた。祭神は八剣神。

(3)石上神宮境内摂社である出雲建雄神社の社伝(現地由緒板から)

・朱雀元年(686年)、布留川の川上の日ノ谷に瑞雲が立ち上り神剣が発光しながら現れ、「今此地ニ天降リ諸ノ氏人ヲ守ラム」と述べて鎮座した。
・出雲建雄神社のまつる出雲建雄神は、草薙の神剣の御霊を指す。延喜式内社。

(4)『石上振神宮略抄』(享保5年(1720年))の記録(kokoroさん「神社による古代史4 石上振神宮略抄より H13.9.17」から)

・八剣神とは八伎大蛇の変身であり、八伎大蛇は素戔男尊に斬られ、八つの蛇となって天に昇り、水雷神となって聚雲の神剣に付き従って布留河上の日の谷に降臨した。これは八龍王八箇石として残る。
・出雲建雄神は八握剣(天叢雲剣)の神である。
・天智天皇代に新羅の僧道行が熱田神宮から八握剣を持ち出して逃亡しようとするが失敗し難波浦に捨てられたのを、以後は宮中で保管していたが朱鳥元年(686年)6月に八握剣の祟りにより天武天皇が病にかかったため、熱田神宮に送り戻す。
・送り戻したその夜、石上神宮神主の布留宿邑智が「東の高山に八雲が上り、その中に神剣が発光して国を照らし、神剣の本に八つの竜が座す」という夢を見る。
・翌日にその現地へ行ったところ、霊石八箇が出現した。
・小童の口から「私は尾張連が祭る神(熱田大神のことか)であり、この地に降臨して人々を守ろうと思う」という神託があったため、出雲建雄神社を造ってまつった。

(5)『吉田神祗管領裁許状』(享保7年=1722年)の記録(kokoroさん「神社による古代史4 石上振神宮略抄より H13.9.17」から)

・「布留川上日谷山武尾大神」の記述がある。
・日谷山(=日の谷?)に武尾大神(=出雲建雄神?)がまつられていたことを示す。



いくつか気づいたことを列挙していきます。

(1-A)と(4-A)、(1-B)と(4-B)は類似している部分が多く、おそらく長滝町の民話の元は『石上振神宮略抄』から取っているのだと思われます。

八つ岩の伝承を整理して引っかかるのは、「スサノオに斬られたヤマタノオチが神剣に付随して岩石に降臨してきた」という物語と、「天武天皇代に神主が神剣と八つの岩に出会った」という、似ているようで時系列の異なる2つの物語がない交ぜになっていることです。なぜこのような物語構成になっているのでしょうか。

まず、八つ岩を起源とみなしている神社に出雲建雄神社と八剣神社(夜都伎神社)の二社があることが挙げられるでしょう。異なる祭祀主体によって1つの聖域を重複して信仰・祭祀することで、後世に混在が起こり複数系統の物語を生んだ可能性があります。

さらに気になるのは、(4-A)の「八龍王八箇石」という名前です。
実は日の谷の西方約1kmにある大国見山(標高498m)の山頂付近に同名のものがあり、これは八伎大蛇が素盞鳴命に八つ裂きされたのが天から落ちてきた名残といわれており、八つ岩と似た伝承を持ちます。この大国見見山伝承がいつからあるのかは検討の余地がありますが、「大国見山の八龍王八箇石」と「日の谷の八つ岩」との間で混同が起こっている可能性もあります。

降臨した場所についても、日の谷と明記している伝承もあれば、(1-B)・(4-B)のように日の谷の名前が明示されていない伝承もあります。
降臨の仕方についても、神剣だけが現れたパターンと、神剣にヤマタノオロチが付き従った形で降臨したパターンの2種類があります。 
降臨した神剣についても、天のむら雲の神剣(=草薙の神剣)と同一物であるとみなす伝承と、特に記述がなく必ずしも同一視していない伝承があります。

神の性格にも2つの系統が見え隠れします。
蛇、八つの竜、八大竜王、水雷神という土地の自然に根ざした水神・竜神信仰の系統が1つ。八つ岩にせよ石上神宮にせよ、そこは布留川という自然物信仰に根ざした祭祀場であることは厳然たる事実です。
その一方でもう1つ浮き彫りになるのが、「今此地ニ天降リ諸ノ氏人ヲ守ラム」と述べた国土神に近い神格や、ヤマタノオロチ・スサノオ・草薙剣に象徴されるような国家神的・政治的祭祀の系統です。伝承に登場する「朱雀=朱鳥元年(686年)」は草薙剣を熱田神宮に奉還して、天武天皇が崩御したという極めて意図的な年です。記紀神話に色付けされたスケール感のある八つ岩伝承は、石上神宮という国家的祭祀の影響も受けて成立していると考えるのが自然でしょう。

このように「異なる複数系統」の歴史が重層的に重なっている八つ岩ですが、逆にそんな中で、全ての伝承において共通して登場するのが「神剣」の存在です。
伝承の原形となった剣が八つ岩から実際に出土したのかは今となっては知るべくもありませんが、石上神宮の布都御魂剣・七支刀の系譜に連なる神剣信仰の場であることは疑いなく、少なくとも延喜式内出雲建雄神社の元宮とされているという意味合いからも、八つ岩の歴史性には特筆すべきものがあると言えるでしょう。
私は少なくとも『延喜式』成立以前の9世紀には八つ岩祭祀が存在していたと認めて良いと思います。朱雀=朱鳥元年(686年)は意図的な年代設定が否定できずそこまで遡れるとは現時点では言えませんが、八剣神社の社伝にある「貞観年間(859~877年)に八つ岩の八剣神を里にまつった」という年代観については、概ね肯定して良いのではないかと思います。

探訪報告


八つ岩の踏査については既に数多の先達による積み重ねがあります。
「神奈備にようこそ」の掲示板では、2001年~2002年頃にかけて有志の人々が情報収集を行ない、努力の末に八つ岩への到達を果たした旨の投稿の記録が残されています。
私はその積み重ねを頂いて僅かな下調べで八つ岩探訪ができてしまう訳ですが、しかしそれでも事前の情報収集では八つ岩の到達は至難で、特に最後の林道からの脇道の入り方が分かりにくいといわれていました。

そこで、まず神奈備さんの「日の谷」で示された「北緯34度36分17秒,東経135度53分18秒」のポイントを25000分の1地図に落とし、後は現地で苦労するだろうなと覚悟して現地近くまで足を運びました。林道は途中まで軽自動車も入れるレベルのしっかりとした道です。途中で崩落箇所があり、そこからは草も茂りつつの中進みます。
すると、ポイントの谷に下写真のような看板がありました。

八つ岩
八つ岩入口

看板には何かが元々貼ってあり、それが剥がれたor剥がされた感じでした。こんな山中で看板を掲げる意味としたら、八つ岩に関する掲示だったのではないかと容易に想像できます。ありがたいことに谷にはロープが張ってあり、ここが八つ岩への脇道だと踏んでそれを辿っていくと、ものの3分ほどで八つ岩に到着します。

八つ岩

八つ岩

八つ岩は、高さ4~5mの半球状の岩を中心として、その周囲に少なくとも8体以上の多数の岩が露出する「岩群(いわむら)」でした。岩には直線状の帯が走る長石の層が確認でき、これは奈良県山添村の岩尾神社のつづら石と同じ成因です。
中心の岩にはまだ真新しい注連縄が巻かれ、手前には神棚や蝋燭台、台座石などが用意され、現在でも祭祀している人がいることが明らかです。

八つ岩の立地は「山頂から少し下に下った尾根上」です。日の谷という地名から谷間立地を想起しそうですが、八つ岩は日の谷の谷間の北尾根に位置しています。
そして特筆すべきは、八つ岩からは麓の大和盆地が一望できるというその眺めの良さです。眺望が特に開けているのは北西の郡山方面ですが、西方の天理方面も木々の間からちらちらと見えています。石上神宮辺りからかなり奥に入りこんだ、こんな山中の片隅でなぜ祭り場が築かれたのかという疑問に対する何よりの回答が用意されており、こんな好立地に特徴的な規模・形状の岩群があれば祭祀の場になるだろうと納得しました。
日の谷最上方に現在沢は流れていませんが、谷の下方はそのまま桃尾の滝を経由して布留川に合流するため、布留川の水源谷間の1つと言えます。この点でも麓の出雲建雄神社・八剣神社と地理的関連性を持つ場であることが分かります。

八つ岩
八つ岩から北西方向の大和盆地を望む

八つ岩の範囲は広く捉えた方が良いかもしれません。
中心の祭り場から尾根を登っていくと、山頂尾根にも特徴的な岩がありました。

八つ岩
山頂尾根露岩

直方体状の形状を持ち、左上から右下にかけて亀裂が入っています。
「日の谷」によれば八つ岩の中に平たい石があり、それを「ばくち場」と呼ぶそうです。八つ岩の中心岩も上面はやや平らでしたが、この山頂尾根にある直方体状岩石はまさに上面平らで、ばくち場にうってつけだと感じたので付記しておきます。

さらに「鳥見山傳称地私考 by 乾健治氏」によると、八つ岩の近くには天狗岩、クツカケ、イワシ谷という場所があるといいます。どこのことを指すのかさっぱりですが、八つ岩背後の山頂尾根を南東の方向に歩いていくと、別の谷間急斜面上にも三角形に突き出た立岩と、その周辺に大小の露岩があります。天狗岩かどうかは分かりませんが、名前の付いても良い岩だと思われます。


長滝町九頭神社の探訪と、そして・・・


八つ岩の南方に長滝町の集落があり、その産土神として九頭神社が鎮座しています。九頭神社の本殿裏に「磐座」があるというのでここにも足を伸ばしてみました。
本殿の真後ろに苔むした岩塊が露出しており、明確にまつられていたり「磐座」であることを示す伝承などはないようなので、ここを岩石祭祀事例として認定するところまでは行きませんでしたが、この岩塊の手前に神社を設けようとした意図は認めざるを得ません。

八つ岩
九頭神社本殿背後の岩塊

建御名方大神を祭神としており、八つ岩と直接の関連はない様子ですが、その地理的な近さや「八つ」「九頭」という辺りの類似、加えて共に岩石祭祀の匂いがすることからもやもやした思いはあります。

年末に訪れたということもあり、ちょうど鳥居脇で門松などの正月準備をされている村人の方が2人いました。八つ岩を見てきたと言ったところ、当たり前ですがご存知で、「立派やったやろ?」と返ってきました。
そして、「まつられてたか?」と訊ねられたので、「ええ、ろうそくの台や台座の石とかがあって、整備されてました」と答えたら、「あんなの、勝手にまつってもいいんかねえ」といったことをおっしゃる。どうやら八つ岩の祭祀場整備はここ5年ぐらいとのことだそうで、村人の方はこの「整備」に余り快く思っていないようです。

思うに、2001~2002年に八つ岩を探していた神奈備さんの投稿者の皆さんが「林道の脇道が分かりにくい」と言っていたのに、現在は脇道入口に看板が立てられています。どうやら看板はここ数年の設置のようです。
看板に貼られていた掲示は現在剥がれていますが、この掲示内容をweb上で紹介しているページを見かけました。しぇるぱさんの「天理の大国見、奥へ奥へと」によると新聞記事「ふるさと歴史散歩、タイムスリップ第48回、超古代文明、イワクラ信仰、八つ岩」のコピーが貼られていたようで、八つ岩を毎月参拝するグループがいるが高齢化が進み年々人が減ってきたという旨の記述があったようです。

八つ岩は昔から出雲建雄神社・八剣神社など異なる母体により祭祀されてきましたが、現代でも様々な立ち位置の人々により祭祀され、注目されている場所であるということを強く感じました。
様々な方面からの信仰があるからこそ、八つ岩の独り占めと思われるような「整備」は別の立場の人々からは快く思われないでしょうし、もしかしたら古代の祭祀遺跡となりうるかもしれない八つ岩の現状を改変してしまっている危険性もあるでしょう。
その一方で、この「整備」がなければ八つ岩の存在はさらに埋もれてしまい、祭祀も途絶え、ただの自然石として忘れ去られていたかもしれません。少なくとも私は辿り着けなかったでしょう。私はこの「整備」の恩恵に預かっているのです。今行なわれている祭祀も1つの歴史であり、立場により評価も変わるのですから、安易に「良かった」「悪かった」という善悪基準は持ち込むべきではないのでしょう。

参考文献




(2010年1月20日の旧サイトの記事を再掲)

2017年4月13日木曜日

ドラクエと岩石信仰

「ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて」

先日、ドラクエ11の発売日が7月29日と発表されたのを聞きました。

ドラクエ30周年記念作品として、いつもよりもプロモーションや制作に力が入っている模様。

私はドラクエ6までしかプレイしていませんが、今作気になるんですよね。

本作のロゴがドラクエ1の反転だったり、オープニング映像にロトの剣が登場したり、 原点回帰的な内容という噂も聞きます。

かつてロトシリーズに親しんだ身としては、久しぶりにやってみたいという気持ちが沸々。

でも、PS4も3DSも持っていないんですけどね。

ひとまず気を鎮めるべく、ドラクエ11の関連ページを探していたら、こんな記述を発見。

主人公の故郷となるイシの村は,命の大樹が浮かぶ大陸の南にある巨大な岩山近く,渓谷地帯の一角に位置する。この村には,16歳になって成人を迎えた者が,大地の精霊が宿るとされている「神の岩」に登って祈りを捧げるというしきたりがある。

 「4gamer.net」より

「イシの村」で、「神の岩」に「大地の精霊が宿る」かあ・・・。


ドラクエと岩石信仰、来ましたね。

岩石信仰の市民権がさらに広がることは、いいことです。

わたしも自分の趣味を人に伝えやすくなりますし(笑)

ゲーム画面を通して、岩から何かを感じとる、そんなプレイヤーの方が続出してもおかしくないと思います。

私もかつてドラクエのドット絵で、大海原にロマンと想像をたくましくした世代ですから。

ドラクエ11を(ハード的に)プレイするかは分かりませんが、期待しています。

2017年4月12日水曜日

高塚の森(和歌山県東牟婁郡串本町)



和歌山県東牟婁郡串本町潮岬
※潮岬灯台前の有料駐車場の車道挟んだ向かい側の森。見つけにくいが入口に「高塚の森 神武(崇神)天皇郊祀時」の木標あり。

高塚の森

概要

潮岬の突端に鎮座する潮御崎神社の神域とされる森。

森内には円丘状の高まりとそこから露出する岩石があり、地元の伝説では応神天皇の侍従の墓と伝えられ、かつては小祠がまつられていたという(小祠は現存せず)。

昭和40年代、円丘南西側に列石や土堤で整地された平坦地形の存在が指摘され、測量調査が実施される。
また、夏至の日にその平坦地から円丘の露岩上から太陽が上ってくることが確認され、高塚の森は太陽祭祀の場だったとする説が出された。

高塚の森
応神天皇の侍従の墓と伝えられるという土の高まり

所感


現地に案内標識の類が全くないので詳しい場所が分からず、地元の人や近所の人何人かに聞き込みをしましたが誰も知らず。
近くのロッジの方に聞いて「聞いたことはある。行ったことはないがあの森だよ」とやっと教えてもらえました。現地での関心・知名度は絶望的に低いです。
 
森の中は鬱蒼とした雑木林という感じで、真夏に入りたくはない感じ。
しかし森の中には遺跡・遺構であることを示す数々の木標や、歩きやすいように草刈などの整備もされています。
これは地元で高塚の森を長く研究されてこられた「はつくにしらす顕彰会」の木村正治氏の努力によるものと思います。

森の中には、確かに人工的な整地が行なわれていたと言える痕跡が確認できました。
最も明確な人工的痕跡は土堤で、周辺の地形から不自然に盛り上がった堤状・塀状地形が20mほど続いています。
その西に並行して直線状に並んだ列石があり、この列石に90度直交した石列もあり、石列の内と外は段になっています。ここは「斎場」と銘打たれています。

高塚の森
石列の一部

ここから北東方向に進むと「斎庭」と銘打たれた平坦部があり、ここには鏡を夏至日の出方向(北東)に向けた鏡とその支え台が想像たくましく「推定復元」されています。
ここから円丘上から上る日の出を仰ぎ鏡に反射させたということでしょうが、斎庭の平坦面は自然地形の想定内でありこの場所に明確な陣異性は認めがたく、祭祀場であったかどうかには疑問も残ります。

高塚の森

高塚の森

さらに北東に進むと円丘状高まりがあります。
頂部には岩石が見えますが、人工的な石材を置いた古墳・神殿的なものには見えず、土に覆われた岩盤の一部が露出し、風化・浸食によって数個の岩塊に分散したというような露岩の在り方です。従って古墳とは違うと思います。

では祭祀遺跡だったか?というと、ここからは遺物が発見されていないので遺跡の認定はできません。
証明された事実は「斎庭」「斎場」地点から円丘の方向を向くと夏至の日の出が上がるということと、「斎場」地点に人工的な列石・土堤が残るということです。

ここの列石・土堤が「いつ作られたものなのか」「何のために構築されたものなのか」という点も十分な批判的検討を経ているとは思われません。
この森が潮御崎神社の神域で応神天皇の侍従の墓として神聖視されたのがいつの時代からなのか、歴史的な資料の裏付けが求められるところです。
森が神聖視されていない時代に農耕的・土建的な目的で構築された地形改変の跡に過ぎないかもしれませんし、祭祀目的であったとしても古代の設置ではなく、意外と近代以後の設置だったという可能性も残っています。もちろん、他の可能性も・・・。

参考文献


松前健・安井良三「対談 巨石信仰と太陽祭祀」及び北岡賢二「高塚の森」『特集・巨石信仰と太陽祭祀』(東アジアの古代文化 28号) 大和書房 1981年

はつくにしらす顕彰会 木村正治氏のWebサイト「三世紀 古代ロマン 南紀潮岬 謎の巨石遺跡 『高塚の森』=太陽祭祀遺跡研究」 → 2009年8月25日閲覧。現在リンク切れ

(2009年8月25日の旧サイト記事を再掲)

2017年4月5日水曜日

たいち墓/太一墓/加三方磐座遺跡(岡山県)


所在地:岡山県和気郡和気町加三方

金子山中腹の尾根端に立地。
昭和51年に「加三方磐座遺跡」の名称で町指定史跡となっている。

たいち墓
遺跡中心部



遺跡の構造は複雑である。

台座石の上に立石を置いた組石があり、これは人工物と考えられる。
一見すると石碑のようだが、立石に文字などは刻まれていない。
石を立てること自体に意味があったのだと思われるが、その目的・機能ははっきりしない。

たいち墓
組石。三段積みになっており隙間には割石を敷き詰めている。


この組石の北に、8個の細長い岩石が一列に並んでいる。
外見的な印象では、横穴式石室の天井石が露出したようにも見える。

たいち墓
8個の列石。頂面の高さも揃っている。


そして組石の東には1個の丸石があり、その周囲を細長い岩石が3個以上取り囲んでいる。
ここだけ見ると、視覚的には環状列石のような感を呈している。

たいち墓
組石の東に広がる環状列石状構造。 環状に並べられた椅子のようでもある。


さらに組石の南には横穴式石室が1基開口しており、磐座山古墳という名前が付けられている。
径15mの円墳で石室長は8.1m、無袖式という古墳規模から考えて、古墳時代後期の山地帯群集墳の典型例と言える。
金子山には他の尾根筋・谷筋でも複数の古墳が確認されている。

たいち墓
磐座山古墳の石室内部。 古墳は盗掘を受けており出土遺物は確認されていない。


これらの点から考えて、磐座遺跡自体も数基の古墳が1つの尾根に密集したものであり、石室の天井石が露出した姿の可能性がある。
それが後世になって雨乞い祭祀の場になり、石材を再利用して立石の組石を築いたのではないだろうか。

ただ、遺跡北東端に露出する2個の巨石は天井石のように接し合っておらず、自然の岩盤のようにも見える。いずれにせよ開口している1基以外の露岩の地中は調査されていないためこれ以上の判断は保留せざるをえない。

土器片と石包丁が発見されているという情報があるが、詳細な報告書が見当たらず、その点数や発見位置、遺跡及び古墳との関連性は全くの不明である。

ここまでは考古学的な話に終始したが、一方で民俗学的な情報をまとめておきたい。

地元では「たいち墓(太一墓)」と呼ばれ、雨乞いや花見の場所だったといわれている。
磐座という呼び名では語りつがれていなかったことに注意したい。

現地を訪れた際、「たいち墓」までの道を定期的に清掃されている地元の方にお会いすることができた。
その方いわく、かつてはマツタケがよく採れたといい、収穫期には見張りのため地元の人がここで夜通し酒食しながら番をしたという。
しかし、やがてアカマツは枯死し、マツタケは採れなくなったことから、見張りの習慣も今は途絶えているらしい。

また、加三方という地名は、部・三宅・大方という3つの集落名をくっつけた字であり、中心集落は三宅であるが、加三方地区合同の祭事を行なう時に神輿を担げるのは大方だけだそうだ。

「たいち墓(太一墓)」や「雨乞い」というキーワードからは、中国思想(陰陽道・天帝信仰)や天体信仰(北極星・天照信仰)のほか、ここがやはり墓所という認識だったことが読み取れる。
また、花見や酒食の番という風習からは葬送供養時の直会の要素を垣間見ることができる。

以上を綜合すると、立石の組石については墓標の働きがあった可能性と、雨乞いの時の祭祀対象として置かれた可能性があるだろう。

なお、遺跡西北の林道脇に細長い岩石がある。
先述の地元の方の話によると、これを「休み石」と呼び、番をする人が道の途中で腰かけて休むものだったという。
特に祭祀要素はないようだが、他例だと群馬県賀茂神社神籠石の「休め石」などは、祭事に神輿を休めるための岩石として用いられており、全国の類例から考えると当地の「休み石」も元来は祭祀に用いられていた可能性があることを付記しておきたい。

たいち墓
ブッシュで分かりにくいが写真中央が休み石。林道の側溝脇にある。


参考文献

八木敏乗 「加三方」 『岡山の祭祀遺跡』(岡山文庫145) 日本文教出版 1990年

「たいち墓」「磐座山古墳」(奈良文化財研究所「遺跡データベース」検索結果より) →2010年5月30日アクセス。
*上記サイトのたいち墓の座標位置は誤っており、たいち墓と磐座山古墳は隣接しているため磐座山古墳の座標位置が正しい。