2017年8月6日日曜日

石を読む、石に惑う~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その6~

――石こそはアナロジーの宝庫であり、人をして最も強烈に「読む」ことへと駆りたてる存在だった。

岩石の哲学では、「石が書く」という表現が使われる。

石が動作主になるわけはもちろんない。
その実は、人が石から何かを読み取り、ある意味勝手に惑わされているだけなのだが、哲学の当事者はそのような表層的かつ無感情な発想で語らない。

それは、かつてこのブログでバシュラールを取り上げた時に触れたとおりである。
再掲したい。

「現代の読者は、こういうイマージュにほとんど重要性をみとめない。しかしこの不信が不誠実な文学批評、ひとつの時代の想像力を発掘できない批評に、読者をおもむかせているのだ。こうして読者は文学のよろこびを喪失する。合理化するだけの読書、イマージュを感じない読書は、文学的想像力を当然軽視するにいたることは驚くにあたるまい。」
ガストン・バシュラール「岩石」(及川馥・訳『大地と意志の夢想』思潮社、1972年)その4

「無神経な読者は、こういう個所はなんのためらいもなくとばして読んだことだろう。つまりここに具象的な描写のための安易な手法しかみとめないはずだ。(中略)けれども文学的夢想の精神分析家は、この積みすぎこそ作家を導く関心をまぎれもなく示す契機だととるべきである。」
ガストン・バシュラール「石化の夢想」(及川馥・訳『大地と意志の夢想』思潮社、1972年)その2

このブログで「岩石の哲学」を追っている理由は、そういった無神経な読者の一人である私が、石を動作主と表現する"シャーマン(私から見て、異形なるもの)"を"シャーマン"のままにしないために、橋渡しとして取り組んでいる。

――フィレンツェの大理石は、十六、十七世紀のヨーロッパでブームを巻きおこした。(中略)貴族たちは、丘や木々、森や小川、雲や稲妻が一層はっきりと絵のように見える石をもとめて四方八方手を尽くした。

フィレンツェの大理石は、もともとは実際に絵が描かれているわけではない。
そう見える石を、もっと見えるように、後から手を加えることはあった。

――「絵入りの石」は当時の学者の手にあまる存在で、人々は魔術的解釈にながれる傾向があった。

これも、美しい美術品と、魔術的な対象の狭間に漂う石の一種である。

こういった石への錯視は、ヨーロッパ特有の話かというと、そうでもなく、日本でもあるのだから、私たちにも身近な話だ。

――日本でも「文字石」と称して、文字が浮かびあがった石を珍重する風習があった。(中略)それらのほとんどは吉祥の文字で、円、天、大、大吉など、ほかには、妙法、もろもろの梵字など宗教にちなんだ文字も少なくない。

ヨーロッパではキリスト教世界観の中で人が石を読み取り、日本では仏教などの日本ならではの文化的味付けに基づいて、石が読み取られていく。

現代でも、人が石に、何か深いメッセージを読み取ってしまう場面をみかけることがある。
研究家に、多い。
フィレンツェの大理石、日本の文字石の例が示すように、その人が読み取ったメッセージは、そのままその人のバックボーンを映している。

――石の名前を注意ぶかく見ていくと、実に多くの名前が物語の様子を携えていることに気がつく。 

今でも、ゴジラ岩やUFO岩など、現代ならではのバックボーンで出た物語が生まれつづけている。

時代ごとの文化を岩石から読み取るのも、面白いテーマになる。

けれど、後天的な知識の上で物語られた部分をすくい取って、バシュラールが言うところの、石という物質そのものが持っている想像力から端を発する基層の部分がないか。
フィレンツェと、文字石と、UFO岩の基層を求めていきたい。

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インタビュー掲載(2024.2.7)